竹内街道−大阪府南河内郡太子町、奈良県葛城市当麻町− |
難波津から二上山の南側の山塊を辿り、飛鳥に通ずる古道があった。今日、その大部分は改良舗装され昔の面影はほとんどとどめていないが、峠の出入り口に当たる大阪府側の太子町山田と奈良県側の当麻町竹内の両地区に、昔日の雰囲気が残る街道がいきている。
道は、推古天皇の21(613)年冬11月、「・・・難波より京に至るまでの大道を置く。・・・」(日本書紀)としるされた竹内街道である。わが国最古の官道。街道が開けた南河内地方は、倭の五王が中国に雄飛して盛んに外交を展開した時代の枢要部だ。大和の飛鳥以前に河内王朝が成立した4、5世紀に渡来人が住みつき大陸の先進の文化、技術が移入され栄えたところである。竹内街道は、5世紀につくられた丹比道を拡幅整備したものであろう。
大道は、推古天皇の摂政聖徳太子が小野妹子を遣わせて、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつが無きや・・・」ではじまる国書を隋の煬帝に奉呈し、大いに国威を発揚に努めた年から6年後の整備であった。妹子派遣の18(西暦589)年前、隋はすでに統一王朝を築き、東アジアの覇権を窺い、朝鮮半島への進出をもくろんでいた。当時、日本は百済や新羅などに利権を有し、隋と対等の立場を貫く政策上の必要性もあった。それはまた中国との軋轢から国際戦争に発展する可能性も否定できなかった。当寺の東アジア情勢から国内における迅速な情報伝達や物資の輸送能力の確保など危機管理対策の強化が求められたのであろう。竹内街道の整備にはそのような東アジアの政治的環境が存在したのだろう。煬帝は翌608年裴世清を日本へ送り、翻意を促すのであるが、ヤマト王権は再度、小野妹子を隋に遣わし、国書をもって「東の天皇、つつしみて西の天皇に白す」と言い放ち、対等の立場を崩すことはなかった。
街道は難波津から飛鳥に通づる行程2日の整備された最短の道であった。白村江の敗戦などの外交情報はいち早く街道を駆け抜けたに違いない。近世に至っても大坂表から竹内街道を通って伊勢参宮や大峯詣りに向かう旅人が街道から消えることはなかった。
後年、竹内街道は岩屋峠を越え、奈良県側の当麻寺に至る間道が開かれている。こちらの方はろくろわたりの道とともに旧態がよく残っており、散策向きである。竹内街道が通る太子町の名称は、大道に通ずるところもあるのだろう。大和棟の民家の影を踏みながら、吹き出る汗に往時の旅人の苦労を思い、大道を歩くのもよいだろう。 |
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