奈良
吉備真備の母夫人墓−五条市大沢町−
たまきはる宇智うじの大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野 <万葉集巻1−4 中皇命なかつすめらみこと>
 万葉集歌中の「宇智の大野」は大和の宇智郡、今の五条市北部の金剛山麓の一帯をさすのであろう。そこは紀の国に通ずる要地であるばかりか吉野川を眼下にして誠に風光明媚。近年、住宅やゴルフ場など開発が進むところである。宇智野の故地は金剛山越えの国道310号線の峠道からの眼下の辺りだろう。そこは、飛鳥の都を防御すべき要衝である。巨勢路に通じ飛鳥に近い。
 標記の歌は当地にしばしば遊猟された舒明天皇に中皇命が献じた歌である。序文から間人連老の可能性がないでもないが、中皇命が舒明天皇の皇女(天武天皇の姉。孝徳天皇皇后)であり、孝徳天皇と反目し母皇極上皇ともども難波宮から飛鳥に連れ去った中大兄皇子の妹であることを思えば、幼少時からなかなか政略的な気転もきく人のようにも思われるのである。そうすると、この歌の作者はやはり中皇命と考えるほうが自然であろう。舒明天皇の遊猟は飛鳥南方の要地を押さえるいわばデモンストレーションの意味合いもあっただろう。そこは中皇命をして「たまきはる宇智」といわせるほどの要害だったのだ。
 宇智はまた自然の美しいところである。初秋の山麓は実にさわやかだ。享保13(1728)年、旧宇智郡牧野村大字大沢から1枚の墓誌が発見された。縦10.7センチ、横13.7センチ、厚さ2.8センチ。部材はセンで煉瓦の一種である。表面に、「従五位上守右衛 士督兼行中宮亮 下道朝臣真備葬 亡妣楊貴之墓 天平十一年八月十 二日記 歳次己卯」としるされていた。吉備真備が天平11(739)年にその母である楊貴氏を葬ったことがわかる。「吉備」の賜姓が称徳天皇の治世である天平18(746)年であるから、母親を葬った当時の姓は「下道」である。母親の楊貴(ヤギ)氏は新撰姓氏録にしるす八木(ヤギ)造と推認される。たぶん、この要地を領していた楊貴氏の故郷に母親を葬ったものであろう。真備47歳の供養である。この墓誌につき偽物説がある。墓誌は農作業中の農民によって発見され大沢町の蓮華寺(現在、無住寺)に保管されていたが、発見されて以来、埋納や発掘が繰り返され実物の行方がわからなくなっていることや、また備中小田郡三谷村大字東三成(現在の倉敷市真備町)で元禄12(1699)年に発見された真備の祖母の骨臓器が銅壺(併せ明治初年にセン製墓誌の断片が発見され、記述の体裁が楊貴氏のセンに酷似)であることなどが背景になったと思われる。しかし、楊貴氏の墓誌発見の場所が当時ははっきりとしており、墓誌の拓本から真備の地位、官職等につき誤りがないことや真備祖母のセン製墓誌の発掘が明治初年と母親のそれより相当新しいものであることなどから、楊貴氏の墓誌は真備によって供養された本物と見てよいのではないか。むしろ、真備祖母のセン製墓誌こそその真贋につき検討を要するようにも思われるのである。
 吉備真備の母夫人墓(写真上)は金剛山麓の五条市大沢町にある。中学校や高齢者福祉施設に挟まれた狭隘な場所に築かれている。墓誌発見以来、発掘、埋納が繰り返され、現在の墓の位置は推定地のようである。しかし墓誌拓本が残されたことは不幸中の幸であった。拓本は、世々、町の徳人によって保管されているという。本邦において、セン製の墓誌は河内高屋枚人、紀継女のもの2例しかなく貴重である。−平成21年9月−