奈良
飛火野と鹿−奈良市−
春日野のとぶひの野守いでてみよ 今いくかありて若菜つみてん <古今和歌集>
 奈良・春日大社の神苑春日野の一角に飛火野がある。その東辺を率川(いざかわ。写真上)が流れ、前面のなだらかな丘陵で鹿が若草を食む。のどかな大和路の代表景の一つであろう。
 「飛火野(とびひの)」という少し変わった名称について、一般的に古代に「とぶひ」と呼ばれた烽火(のろし)台がおかれたところ、といわれるが諸説ある。平城宮の大極殿に立つと、飛火野の辺りは奈良県庁等の後年の高層建築物や松林に遮られ、御蓋山(三笠山)の麓に飛火野をのぞむことはできない。高層建築物等を取り除けば、多分今の飛火野の一角を望見できると思うが、烽火の目的から推して、急を知らせる立ち昇る煙は生駒山等の高所の中継地点から確認できればよいわけで、烽火は必ずしも高所に置く必要はなく、かえって見えにくくなる場合もあるだろう。飛火野は所説の通り、「とぶひ」が置かれたところと解する方が自然である。
 飛火野と鹿。うまく共存し、鹿は芝をととのえ育む。丘は大きく美しく刈り込まれた庭園のようにみえ、芝の向こうに見える春日原生林や御蓋山、若草山は「飛火野庭園」の借景。これほど雄大でのびのびとした庭は類例がない。
 春になると飛火野の率川べりにアシビが咲き、鹿の群れが水場に集う風景はまったく美しく感動的だ。切り取られた牡鹿の生え始めの角はフクロヅノ。先が丸く、6月頃まで茶色のキノコのようにやわらかい毛皮をまとい、血が通っており触ると暖かい。やがて角の毛皮は木の根や土にこすりつけて破り、しだいに角の先は鋭く尖り、白くかたく、冷たくなる。
 鹿はおとなしいが、交尾期に入る9月ころの雄鹿と子を身ごもった6〜7月の雌鹿は婦女子や子供に突きかかることもあり要注意。紙のフクロやお札、ちり紙など紙の類は何でも好きで、油断すると食われる。
 奈良公園の鹿は春日大社の神鹿(しんろく)と呼ばれる。大切に飼われている。10月の「つのきり」や「しかよせ」など、鹿にまつわる行事がある。−平成22年5月−