近畿風雲抄
奈良
太安萬侶・小治田安萬侶墓誌の周辺−奈良市此瀬町−
左京四條四坊従4位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老7(723)年十二月十五日乙巳    <太朝臣安萬侶墓誌> 
太朝臣安萬侶墓所在の茶畑 奈良市の東郊に田原という地区がある。山腹の斜面に茶畑がひろがる静かな山村の佇まいである。昭和54(1979)年1月、この丘陵から1枚の銅製墓誌を伴う太朝臣安萬侶墓が、たまたま茶木の改植中に発見された。太安萬侶が古事記の編者という話題性もあって田原を訪れる人があとをたたなかった。
 奈良市東部の準平原をなす山間部は、よほど官人墓地の卜地として好まれたものか、或いは属地であったものか。
 太朝臣安萬侶墓の南方、10キロほどのところに小治田朝臣安萬侶墓(奈良市都祁甲岡町)が存在するとなれば、そのような単純な疑問も生じる。
 小治田安萬侶墓の発見は明治44(1911)年、桑畑の開墾中に発見されている。それは太安萬侶墓より約70年ほど前に発見され、銅版墓誌を伴うものであった。この墓誌が今、どこにあるのか知るよしもないが、3枚1組のこしらえで在銘の本体に左琴、右琴の別版を伴って出土したと伝えられる。漢式のこしらえであり、小治田安萬侶の人間像が偲ばれてほほえましくもある。小治田朝臣は墓誌銘によると、その卒年は太朝臣より6年遅れの神亀6 (729)年である。養老7(723)年、太朝臣がなくなると、小治田朝臣は古事記編纂の功労者太朝臣の墓誌に関心をもったことであろう。注意深く太朝臣の墓誌の情報を集めたに違いない。両人の生前の住まいは、太朝臣は「左京四條四坊」、小治田朝臣は「右京三條二坊」で、平城京の左右反対の街区に住み、位はともに「従4位下」。太朝臣の墓誌銘には墓の所在が刻されていない。小治田朝臣のものには「大倭国山辺郡都家郷里崗安墓」と記銘されている。小治田朝臣の太朝臣への対抗心であり、貴神のこだわりであったのか、小治田朝臣の人となりが偲ばれる。小治田朝臣が墓の所在地を文字で残したため、私たちは今の奈良市都祁甲岡町の来歴まで知ることができる。都祁甲岡町はつい最近まで山辺郡都祁(つげ)村の名称を継いでいたし、甲岡は郷里崗から転じたことが証明されているわけである。
 太朝臣、小治田朝臣が眠る山間の在所は、起伏のある高原に開けた桃源の里である。墓所に立ち、眼前の盆地を望めば、両人が当地を所望したわけが容易に理解できるであろう。−平成20年4月−
右京三條二坊従4位下小治田朝臣安萬侶大倭国山辺郡都家郷里崗安墓 神亀六年歳次己巳二月九日   <小治田朝臣安萬侶墓誌>
 ※ 上記は本文銘。左右の別版に、ともに「神亀六年二月九日」と刻銘がある。

太朝臣安萬侶墓所在の茶畑 治田安萬侶墓
太安萬侶墓
(奈良市此瀬町)
小治田安萬侶墓
(奈良市都祁甲岡町)
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