近畿風雲抄
奈良
山部赤人−宇陀市榛原区額井町−
   春の野にすみれみにと来しわれそ野をなつかしみ
   一夜寝にける 
                     <万葉集巻8−1424>
山部赤人墓 大和の宇陀の山中に山部赤人のそれと伝えられる墓(写真左)がある。額井岳(標高812.6メートル)の南山麓に墓はある。東方に戒場山、南方に榛原市街を望む高所にあって、等高線に沿って棚田が拓けたところである。墓の脇に‘あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯の声’(万葉集巻17−915)の歌碑が建っている。いかにも古ぼけた墓標と重畳をなす山々の風景に接すると、やっぱりここが赤人の墓所かと実感できるほど赤人に相応しい奥都城のようにも思われる。
 赤人は、「山部」の姓から山林作業を為す人々の統括者としてヤマト王権に勤仕した伴造(とものみやつこ)の後裔かと思われる。木材の供給地としての宇陀や吉野は都への地の利があり、そこが赤人の故郷と考えられなくもなく額井岳南麓に赤人の墓所が営まれたとしても何の不思議もない。
 山部赤人はまた、大伴家持が大伴池主に送った書簡に、「・・・幼年、未だ山柿の門に過らず。・・・」とあり、古来、「山柿」の「山」に当たる人物として評価を得た歌人であった。「柿」は柿本人麻呂で異論はない。ところが、近世にいたって、「山」は山上憶良ではないかという有力な説が提起されるようになった。歌道を目指すものは、両者の歌風を参考に精進するので、「山」が誰かということは大きな関心事であったに違いない。
 近世以降、山上憶良の評価の高まりとともに、山柿論争は大いにブレークした。巻17にある‘あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯の声’を根拠にして赤人説の決め手の一つにする者もいた。家持がこの歌の遺漏に気づき、万葉集に書き加えたことを示す奥書きがあり、家持が敬慕の情を示すほど衆人の赤人への評価は高かったというわけだ。家持は幼年のころ、父親旅人が太宰帥として筑紫に赴任すると、母親とともに筑紫に同道。赴任中、憶良も筑前守として滞在中であり、家持と憶良は互いに認知する間柄であったと思われ、それらの事情を知り、一族である池主に、未だ山柿の門に過らずとの感慨は示さないと考える方が自然であろう。家持も池主も晩年は政治的方面の活動に奔走し、悲痛の最期を遂げた。それもまた没落貴族の復権が一族に課せられ宿命となりやがて家持の焦りとして常在し、破滅への道を辿ったのだろう。淡々と自然を詠み、永劫の哲理を滲ませる赤人は、家持が潜れない「門」であったに違いない。
 人麻呂と並び長歌に秀で、清らかな短歌を詠む赤人の真情は、まさにこの宇陀の山々の自然によって培われた。初夏の日、額井岳山麓の山道に、赤人がふっと見えるような錯覚を覚える。−平成22年5月−
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