奈良
蘇我倉石川麻呂の悲劇−桜井市山田−
本毎もとごとに 花は咲けども 何とかも うつくし妹が また咲き出来でこぬ 
               <日本書紀 野中川原史満>
山田寺跡 蘇我倉山田石川麻呂が氏寺山田寺で自経し薨じた。大化5(649)年、異母弟日向の讒言によって謀反者となり、大化改新の功労者は自ら命を絶った。妻子ら連累者38人も飛鳥の露と消えた。
 山田石川麻呂は馬子の孫。入鹿とは従兄弟。入鹿の親蝦夷が蘇我氏の宗家で、蘇我倉は石川麻呂の親倉麿の臣姓である。いわゆる蘇我氏の分家筋にあたる。石川麻呂は宗家とは異なり、娘を天皇家に嫁がせて外戚としての地位を固めていた。すなわち、遠智娘(天智天皇嬪、持統天皇母)、姪娘(天智天皇嬪、元正天皇母)、乳娘(孝徳天皇妃)はみな天皇に嫁がせたのである。
 石川麻呂は皇極4(645)年、中大兄皇子(天智天皇)、藤原鎌足とくみ大化の改新に参加。クーデターをおこし、飛鳥板蓋宮の大極殿で百済からの上表文を読む役割を演じた。改新政治には最上級の廷臣、右大臣に就任。改新政治の実施に当たったが、くだんの異母弟日向の讒言によって謀反者となり、難波宮の宅は孝徳天皇の軍によって囲まれ、難波から逃げて大和の寺(山田寺)に入ったのである。しかし、石川麻呂は孝徳軍と交戦することなく自経した。38名の連累は処刑された。石川麻呂の娘蘇我造媛(遠智娘。中大兄皇子妃)も心を傷めて逝ってしまう。時が去り、石川麻呂の没官の資材中から遺書が見つかり、石川麻呂は無実、中大兄皇子はおおいに嘆いたと日本書紀はしるしている。日向は筑紫大宰帥に左遷。なんともあっけなく、いともたやすく人の一生が左右され、石川麻呂は斬の刑を受け、日向は配置替の処遇では、石川麻呂が可愛そうにも思われる。当時の朝鮮半島の政治情勢など考えれば、日向の太宰帥への異動は大和を離れるにせよ斬の刑とは質が異なる。
 日向から石川麻呂の謀反の知らせを聞いたのは中大兄皇子、斬の処断にも深くかかわったことであろう。石川麻呂は自らの妃もまたその妹も皇族に嫁いだ娘の父である。石川麻呂逮捕の首謀者を孝徳天皇とする者もいるが、むしろ中大兄皇子の政治的判断に基づくものかと思ってもみる。大海人皇子が吉野に隠れたのもそのような中大兄皇子のこわさを一番よく知っていた人なのだろう。