奈良
本薬師寺址−橿原市城殿町−
本薬師寺址 畝傍山の東方、藤原京の域内に薬師寺の建立を発願した天武天皇。落慶は持統天皇11(697)年7月である。すでに天武天皇は崩御し、造寺の遺志が持統天皇に継承され落慶した。持統天皇はよほどこの寺の落慶に執念を持っていたようであり、落慶を済ませた翌8月、文武天皇に譲位がおこなわれている。その13年後、木の香も冷めない和銅3(710)年、薬師寺は遷都に伴い平城に移され、平城の薬師寺に対して本薬師寺と呼ばれた。
 本薬師寺の伽藍様式は中門、塔婆、金堂、講堂を直線上に置く百済式の四天王寺と異なり、中門と金堂の間に東西両塔を置く唐式の配置である。薬師寺式ともいわれるもので伽藍のうち最も重要な塔婆を2塔設け伽藍配置の荘厳性が増したのである。伽藍の配置と規模は平城の薬師寺と同じであるが、本薬師寺の古材がそっくり薬師寺に移設されたわけではなく一部の建物は平安時代頃まで当地に残っていたようである。
 冬の日、茫漠とした本薬師寺址に寒風が吹き、東西両塔の白々とした礎石を舐めている。基壇上の遺物は間違いなく持統天皇や文武天皇が仰讃しこの国の安泰を祈願した塔婆の址である。菜の花が咲く春のころには、白鳳の夢跡に多くの人々が集うことであろう。−平成20年1月−

本薬師寺址 本薬師寺址