奈良
毛原廃寺−山辺郡山添村大字毛原−
山辺の 御井を見てがり 神風の 伊勢処女等 相見つるかも 〈長田王 万葉集〉
毛原廃寺
毛原廃寺跡
伝御井
御井
 万葉集に標記の詠歌が載る。詠者は長田王で注に王が伊勢の斎宮に遣わされた時、山辺の御井で作歌したとある。その際、長田王は‘海の底 沖つ白波 立田山 何時か越えなむ 妹があたり見む’など歌二首を詠じている。しかし、万葉集の編者は、右の二首はいま思うと「御井」で作った歌ではなく、当時詠われていた古歌かも知れない、と左注している。作歌の場所である御井につき諸説あるが、大和名所図会所収の毛原廃寺(写真左)の寺域内に遺存する「御井」(写真下)が万葉集に詠われたそれに比定すると、伊勢に向かう途中の御井と立田山は地理的に反対方向になるところから編者は疑問に思い、あえて注を加えたものであろう。
 さておき、長田王が伊勢に遣わされた和銅5(712)年、長田王は従5位下である。神祇官に属しておれば大福(副官)ほどの地位にあった人物。伊勢に向かう一行中の主人であったはずの長田王が毛原寺に立ち寄って休息した際、御井などの歌を詠じたのだろう。
 毛原廃寺の記録が伝わらず、長田王が伊勢路を辿ったころ果たして同寺が存在したかどうかすら不明であるが、同廃寺跡から出土の軒丸瓦や軒平瓦の様態から察すると軒丸瓦は大和の本薬師寺、軒平瓦は大和の大安寺のそれと共通点があるように思う。そうすると毛原寺の創建は東大寺創建以前とみることもできる。後年、毛原が東大寺領・板蝿杣となりその支配を受けるようになる以前、長田王は御井の水で渇きを癒したのだ。
 毛原寺は山部(辺)の伴造であり多分、国造であった豪族が律令制下で郡領に就き、その氏寺として建立したものではないだろうか。したがってそこは、山部の都邑をなすところであったに違いない。東大寺など南都諸大寺が力を蓄えはじめると郡領は領地の一部を東大寺に施入し権力の維持を図り、長田王が御井を訪れたころ寺は隆盛を極めていたことであろう。
 今日、毛原廃寺に立つと、金堂など遺構の規模や巨大な礎石群にただただ目をみはるばかりである。木津川の支流・笠間川左岸に開けた毛原廃寺は標高二百数十メートルの高所に建てられた大伽藍。南都の大寺に匹敵する規模である。廃寺跡に立ち、眼下を見渡せば、重畳をなす山々の彼方に伊勢がある。雨後には立ち昇る雲海の彼方に伊勢はある。旅に不安は尽きない。長田王は振り返り、雲居の彼方の立田山に手向けして、再び妻と再会できる日を念じつつ伊勢路についたことであろう。現地を訪ねると、御井の歌(万葉集81)のほか2首(万葉集82,83)もやはり毛原寺(御井)で詠われた歌のように思う。 −平成22年6月−