法華寺の十一面観音−奈良市法華寺町− |
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法華寺 |
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法華寺本堂 |
奈良市の一条通りを西に行くと通りの突き当たりに法華寺町という町がある。昔の佐保村に在って寺名が町名に転じた法華寺がある。寺は閑静な住宅地のなかにひっそりと建つ。寺門の脇に大きな石柱が立ち、「法華滅罪之寺」とある。この寺こそ天平13(741)年、聖武天皇が詔を発し諸国に造立された国分尼寺である。僧寺は金光明四天王護国之寺と称し、尼寺を法華滅罪之寺と命名された。総国分寺東大寺は女子の参詣を厳禁していたから、光明皇后は東大寺に対抗して総国分尼寺法華寺を当地に建て、一切の男子を寺域に入れなかったという。
法華寺の本堂は桁行7間、梁間4間、単層寄棟造。慶長年間の再建であるが、その小さきがゆえに簡潔で美しい御堂である。本尊は木造十一面観音立像。顔立ちは荘厳な趣がある。光背はハスの蕾や葉を針金様の添木に刺してあるもので45本ある。春秋に一般公開される。この十一面観音像は光明皇后をモデルにしたといわれ、右手がいかにも長く膝の下まで垂れているがくねった肉体と調和し全く違和感がない。像の翻波式衣文のあり様などから平安時代の制作と説かれているがどうだろうか。平安の顔立ちではなく彼のガンダーラ仏のそれを思わせる。天平末期の作とみてよいのではないか。様式にあまりこだわり過ぎると時代の諸相を見失ってしまう可能性もある。
法華寺の十一面観音は「問答師」作と伝えられている。同一の像が新薬師寺(現在、十一面観音像は同寺で祀られていない。)にあり、こちらの像も問答師作と伝えられてきた。問答師は、熱心な仏教信者であったガンダーラ国の見生王が生身の十一面観音は光明皇后であるとの夢の告げを受け、日本に派遣されて3体の皇后像を刻み、2体を日本に置き1体をガンダーラに持ち帰ったという。興福寺の阿修羅王など天竜八部衆や釈迦十大弟子などもみな問答師の作といわれてきた。問答師が実在した仏師かどうかの詮議はさておき、天平期の奈良は、国際都市然としてバラモン僧や唐僧が往来し、仏教文化が花開いた。彼の鑑真が仏師を引き連れ来日し造仏が行われたように、ガンダーラから仏師が渡来していても何の不思議もない。奈良の仏教文化はそれほど国際性を有していたように思う。
法華寺にはこのほか阿弥陀三尊の大幅がある。こちらの製作年代は藤原時代である。−平成21年12月− |
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