京都
廃村の村々と春の草花−京丹後市大宮町、弥栄町、宮津市−
福寿草群れておりいまむかし<閑山>
 丹後半島の中央部に味土野(みどの。京丹後市弥栄町)、内山(うちやま。京丹後市大宮町)、上世屋(かみせや。宮津市)という集落がある。
 集落は深い峡谷をなす山腹に山道を刻み、互いに交通し、薪炭、木地、畑仕事を生業とする自給自足の生活が営まれていた。
福寿草(内山)
イチリンソウ(味土野)
ニリンソウ(味土野)
 三つの集落は半島の中央部に所在し、味土野は野間川(宇川)、内山は竹野川、上世屋は世屋川のそれぞれの源流部に位置し、標高400〜500メートルのところに集落がある。 集落は味土野を北にして、上世屋が東、内山が南に位置し、京都府道が3集落を廻る。集落と道路を結ぶと、トライアングルのかたちになる。
 さらに、内山から上世屋に至る道筋に駒倉というもう一つの集落がある。駒倉は味土野と同様に平家の落人伝説がある。特に駒倉は、一の谷で源氏に敗れた残党が落ち延び、唯念寺に平家の旗を伝える集落である。
 丹後半島は寒冷の豪雪地帯。山々の標高は標高500〜600メートル。それほど高くはないが山の上部にブナの木が茂る。毎年のようには雪崩によって山腹は崩れ、山道を崩し時に集落を襲う。それでも山に暮らす人々は集落を捨てることはなかった。
 しかし、電線をまたいで往来するような豪雪が続くと人々は前途に不安を感じ、また嫁がこなくなるとポツリ、ポツリ、山を下りる人が出るようになり、日本の経済が右肩上がりになる昭和30年代ころから北近畿全般に離村、過疎化に歯止めがかからなくなった。加えて昭和38年に日本海の海岸地帯を襲ったいわゆる三八(サンパチ)豪雪は人々に決定的な決断を迫った。
 丹後半島の最深部の味土野、内山、上世屋、駒倉も例外ではなかった。昭和47年に駒倉、翌48年に内山に最後に残った住人が離村。地図上から両集落の名も消えた。味土野も元住民はすべて離村。上世屋の過疎化は進行した。集落間を巡る府道は不通区間が解けない。
 過日、内山、味土野を訪ねた。大宮から府道655号(味土野大宮線)で五十河(いかが)を経由し、内山、味土野に行く予定にしていたが、道は内山まで。内山から味土野まで約4キロの道程は不通。この道は日本で最もひどい公道であろう。府道開闢以来、内山〜味土野間は開通したことがあるのだろうか。未舗装の道にフキノトウが生え、一抱えほどもある大岩がゴロゴロし、倒木が道を塞いている。崖下から吹き上げてくる風が冷たい。もうすぐ5月の声をきくというのに、山かげの落ち葉を剥ぐと残雪(写真左)があらわれる。恐ろしくなり慌てて内山に引き返す。内山から上世屋に通ずる駒倉峠越えの道(府道618号)も不通。上世屋−味土野間の道も多分、似たようなものだろう。丹後半島の仙境を巡るトライアングルの道は、自動車はおろか歩行も困難とはいかんともしがたい。
内山離村の碑
 廃村となった内山集落跡を歩く。十数戸あった集落は昭和10年に1戸となり、最後の1戸も昭和48年に離村。住居跡に離村の碑が建っている。日本で最もさみしい記念碑であるに違いない。石碑に昭和48年4月6日離村と刻まれている。傍らでフクジュソウ(福寿草)が群落をなし、満開の花が風に揺れている。
 内山から味土野まで府道655号を歩いて4キロ余。くだんの状況からこの道をたどることをあきらめて五十河に引き返し、半島の西側に周り、弥栄町野中から宇川沿いに味土野を目指す。険しい山道が続く。
 道端でイチリンソウが風に揺れている。深い峡谷の斜面にニリンソウが咲いている。「フクジュソウは終わりました。」と味土野の人。ここはガラシャ隠棲の地。平地はほとんどなく、山の斜面や険しいがけ地に畑の跡地が見える。山桜は葉桜に変わり、これから味土野によい季節が訪れる。−平成25年4月−