京都
三角縁神獣鏡の不思議−木津川市山城町椿井、天理市柳本−
 三角縁神獣鏡。唯一、日本のみで出土する鏡である。昭和28(1953)年、鉄道の改良工事中に大塚山古墳(京都府木津川市山城町椿井、写真左)から三十数面の三角縁神獣鏡が発見され、邪馬台国論争とも絡んで注目を浴びた。さらに、平成10(1998)年に黒塚古墳(奈良県天理市柳本、写真下、下段)から33面の三角縁神獣鏡が発見された。邪馬台国畿内説を裏付ける発見として注目され論争が急展開するようになった。
 三角縁神獣鏡は、中国の魏に使者を送った邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から100面の鏡を下賜されたという記事が中国の史書三国史の魏志倭人伝に載っている。しかし、不思議なことにわが国最古の史書日本書紀には卑弥呼や遣使の記述がない。邪馬台国の所在論ともあいまって大いに私たちの関心を刺激し続けてきた。
 邪馬台国の卑弥呼は景初3(239)年、魏の洛陽に難升米(大夫)と都市牛利(副使)を遣使し、金印紫綬と100面の鏡を得た。難升米は景初3(239)年に洛陽に入り、翌正始元(240)年に帰国する。日本の古墳から漢鏡より大おおぶりの三角縁神獣鏡が出土する。この鏡の中に卑弥呼が遣使した景初3年の元号が記銘されたものが出土して、三角縁神獣鏡こそが卑弥呼に下賜された鏡であり、三角縁神獣鏡が最も濃密に分布する畿内に邪馬台国があったと主張する人がいる。また大塚山や黒塚の鏡と同じ鋳型で制作された三角縁神獣鏡が関東や九州の古墳から出土し、畿内に存在した邪馬台国の支配が全国に浸透していく実証資料として説かれることもある。大塚山古墳や黒塚の被葬者は、鏡の配布に当たった有力豪族乃至交易などで力をつけた豪族が権力の証として中央から多くの鏡を与えられ、保有したと考える人もいるだろう。しかし、魏の皇帝が卑弥呼の2回目の朝貢や卑弥呼の後継者台与に、三角縁神獣鏡を与え続けたとしても、その出土状況から推計して4桁にも及ぶ三角縁神獣鏡を下賜し続けたとは到底、考えにくい。大塚山古墳と黒塚から出土した三角縁神獣鏡だけでも、2古墳で数十面もの三角縁神獣鏡が出土している。大塚山の出土経緯を推察すればさらに多くの鏡が持ち出され、大塚山古墳においては一旦散逸した鏡が一部戻らなかった可能性も否定できないし、盗掘にあっていた黒塚から一面の鏡も持ち出されていなかったという確証もない。推定して数千面以上にも達する三角縁神獣鏡が国内に流通していたことにならないか。私は、三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代より遥か後世に、ヤマト王権を樹立した王朝によって制作された国産鏡ではないかと思ってもみる。それは、卑弥呼に下賜された鏡ではなく魏志倭人伝などの文献に明るく、鏡の製作技術持った渡来人を勢力下においた王朝によって製作されたものではなかったか。
 大塚山古墳は全長175メートル、盾形の周濠をめぐらせた巨大前方後円墳である。黒塚古墳は全長130メートルの前方後円墳である。両古墳とも弥生時代後期の墳墓とは思われない。古墳の形状等から3世紀の古墳と仮定しても編年の基本となる箸墓の実態がまったく解明されていない状況下では、心情的には理解できるが飛躍に過ぎる感なしとしない。鏡、剣、勾玉など弥生時代から古墳時代に至る墓制との連続性や副葬品等の遺物、遺物の科学的手法に基づく年代測定等によって古墳の築造年代が明確にされねばならないだろう。
椿井大塚山古墳
前方部
(標柱が立つ)
左手が後円部
黒塚古墳
(写真左下は三角縁神獣鏡のレプリカ。
古墳公園に展示)