通称三十三間堂。正式には蓮華王院と呼ぶ。三十三間は本堂西側の縁側の長さを示したものではなく柱間の数である。三十三観音信仰に結びつけ柱間の寸法が設計されたようである。本堂の桁行は64間余り、縁側の長さは百メートル余にもなる。堂の端から眺めると、縁側は本当に遠く長いものだ。
三十三間堂は「通矢」で知られたところ。通矢は永禄8(1565)年、今熊野の観音別当栴坊(なぎぼう)が八坂の的場帰りに当寺で矢を射た故事を起源とする。本堂の西側軒下(写真左)の縁から北側に向って矢を射て、堂の端まで通した矢数を競う。通矢の最高執行者は「総一」或いは「天下一」と称され、氏名と矢数が堂前に掲示された。
弓術の練達に励む武人は名誉をかけて通矢を競い合った。紀伊藩士の和佐大八は貞享4(1687)年に総矢数1万3053本中、8133本を通して天下一となった記録が残る。生年18、9才の角前髪の大兵であったという。
蓮華王院は長寛3(1165)年、後白河法皇の命によりに平重盛が造営した寺。1001躯の千手観音と観音二十八部衆を安置した。運慶の傑作といわれるそれらの諸像を祀る必然として、桁行64間もの長堂を必要としたのである。その後、建長元(1249)年堂宇は灰塵に帰す。二十八部衆と一部の千手観音が焼け残ったという。復興は亀山天皇の文永2(1265)年である。末法を予感させる天変地変が相次ぎ、世上、宗教論争も非常に盛んになりかつ大陸方面で元寇を予感させる振動がおこりはじめると、破格の大仏像群の造成に湛慶、康円、康清など仏師のノミ先が乾くことはなかったであろう。
暗幽とした堂内に漂う千手観音。これだけの群像が一堂に起立する祈りの空間は世界のどこにもない。御堂の裏手に回れば二十八部衆、風神・雷神の2躯があらわれる。それが湛慶か、康円か、或いは康清の手に拠るものかなど、そのような瑣末なことに全然思いがめぐらないほどこの堂の諸像には新鮮味がある。密雲を蹴って下界に奔馳する風神或いは雷鼓を打ち紫電に跨って天空を独領する雷神のあの生気がみなぎった新鮮味は過去の時代にはみられないものだ。二十八部衆中の婆藪仙人は高雅な趣を漂わせている。どれも鎌倉時代という政治的、精神的に緊迫した時代を反映して余すところがない。ここには鎌倉時代のよい天部彫刻がある。−平成21年5月−
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