京都
元伊勢−福知山市大江町河守−
皇大神社(内宮)
 福知山市の郊外に大江町河守(こうもり)というところがある。由良川の支流宮川沿いの山間にひらけ、その昔は与謝郡に属する丹後(8世紀以前は丹波)の村だった。
 宮川沿いの幹道を行くとまず豊受大神社(外宮。写真下)が、さらに進むと皇大神社(こうたいじんじゃ。内宮。写真上)がある。日本書記や倭姫命世記に記された与佐宮(よさのみや)は当地であろうとされ、両社は伊勢の皇大神宮(写真下)と豊受大神宮に遷った後も聖跡として祀られてきた。豊受大神社と皇大神社は元伊勢と総称されている。
豊受大神社(外宮)
大和の元伊勢(桧原神社)
伊勢の皇大神宮 正宮
 崇神天皇6年、宮中を離れた皇祖天照大神は初め倭笠縫邑(かさぬいむら)に磯城神籬(しきひもろぎ)をたて祀られた。初代斎王は豊鋤入姫命である。その故地が大和の桧原(ひばら)神社(写真左)とされ、同社はここから伊勢に遷宮になる。桧原神社は初代の元伊勢の聖跡。いま大神(みわ)神社の摂社となり山の辺道の傍らにある。この社を詠じた柿本人麿の歌が万葉集にある。
 伊勢に遷った皇大神宮はその後もしばしば遷宮を繰り返した。皇大神宮の与佐宮への旅は、当地に祀られていた豊受大神を伊勢に遷す目的があったとみるのが一般的である。豊受大神は五穀の穀物神である。五穀から酒が醸される。
 和銅6(713)年、丹波は丹波、丹後に分割された。分割される以前の丹波(今の丹後。以下、同じ。)に5世紀ころに築造された大型前方後円墳や円墳が数多く立地し、弘計(こけ)、億計(おけ)の2兄弟の説話(与謝郡に身を潜め、後に天皇になる。)や武烈天皇に子がなく後継の第一候補になった倭彦王の説話があるように皇族と無視できない深い結びつきが推される。
 丹波は近江とともに大嘗(おおなめ)祭の主基(すき)国に定められ、水稲等の穀物生産が盛んであった。加えて丹波各地に伝わる真名井ヶ池伝説は酒の醸造に含みがあり、皇室の膳部との結ぶつきも無視できないだろう。穀物神である豊受大神の重要性が伊勢への遷宮に結びついたものか。与謝宮の所在につき諸説があるが、どうも河守説にその蓋然性が高いように思う。−平成24年1月−