京都
京の禅寺(建仁寺)

 京都を訪れ南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の五山の青葉若葉や紅葉を愛で枯山水を鑑賞し、東山の街角或いは近江境の大谷辺りで雲水の姿などみると幾百年いやそれ以上の歳月を経てもぜんぜん変わらない風景に懐かしさを感じさえするものである。
 白河天皇は、天下三不如意を‘鴨川の水と双六の賽と山法師’と嘆いた。筑紫から京都に上った僧栄西が禅院の創建を願い出たのは建久5(1194)年。許可が得られず一旦、鎌倉に下り武家に禅宗を広め、再び京都に戻り建仁寺の創建を許されたのは建仁2(1202)年のことだった。実に8年の時の流れが延暦寺を軟化させ、将軍源頼家が広大な地所を施入し、元久2(2005)年京都最初の禅院建仁寺が東山にその威容を整えたのである。しかしなお、栄西は比叡山や高野山をはばかり、建仁寺は真言・天台の学をも修める3宗兼学の講学構造を持ち、東大寺の復興を成し遂げた重源にかわり建永元(1206)年、同寺の勧進職を務めることもあった。建仁寺の方丈は天正年間に安芸国の安国寺本堂を移築したものである。単層入母屋造りの大殿である。切妻造りの勅使門(四脚門)は雄健な印象がある。鎌倉期の古い門を室町期に再整備したものか。
 京都禅院の五山の制はもともと宋国から伝わり後醍醐天皇のころから五山の称が用いられるようになったといわれる。紆余曲折があるが五山の第一位は「五山之上」と位置づけられた南禅寺。同寺は五山中、唯一皇室創建(亀山天皇)で、歴代名僧が住持を務めた歴史があり、五山制を定めた際、「五山之上」と評価されたのであろう。−平成21年12月−