東大寺の大鐘、薬師寺の鐘、当麻寺の鐘、大宰府観世音寺の鐘・・・みな奈良朝の古色を宿す無銘の鐘である。新薬師寺の鐘もまた何の装飾もないがそのかたちに優れ、撞座の蓮華紋の簡潔さが人の心を捉え続けてきた。法隆寺西院の鐘はもっと古い鐘だ。少し時代は下がるが、法隆寺東院の鐘、唐招提寺の鐘、三井寺の弁慶引摺鐘、平等院の鐘などもよく知られた鐘である。
鐘は寺院の法事ごとや時刻を告げてきた。近年、それらの鐘が時を告げることはなくなり、除夜に鐘の音を聞くこともほとんどなくなった。当麻寺の高古、大宰府の雄健、法隆寺西院の老蒼、平等院の優麗など鐘にそれぞれ深い音色を宿していた。菩提寺のゴーンという音色に故郷の原風景をしまいこんでいる人も多いだろう。
京都東山の方広寺の鐘は、銘を刻したゆえに豊臣家の滅亡を招いた鐘としてよく知られている。慶長19(1614)年4月、方広寺の鐘は完成した(写真上)。銘の撰文は秀吉と親交のあった清韓文英長老だった。高さ19メートルの木造盧舎那仏を奉安する大仏殿は、棟の高さ約45メートル、桁行約81メートル、梁間約49メートルの壮大なものであった。徳川家康は、豊臣秀頼の使者片桐且元に対し、大仏開眼供養を同年8月2日に行うと伝えた。しかし、同年7月、開眼供養の直前になって家康は、鐘の銘中、「国家安康」は家康を分断している、「君臣豊楽」は豊臣家のみの繁栄を願っていると申し向け、五山の僧や林羅山を動員して銘に因縁をつけ己の邪推を正当化するのだった。この方広寺の梵鐘事件は政局にまで発展し、大阪冬夏両度の合戦となって豊臣家の滅亡を招いてしまうのである。今日、創建当寺の方広寺大仏殿は、地震や雷火によって焼失した。鐘が吊るされた悪夢の跡に、ヒュウーヒュウーと京の冷たい風が吹き抜ける。−平成20年1月−
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