京都
三宅天満宮(祈りと悟り)−綾部市豊里町三宅−
 京都府の北辺に綾部市という町がある。由良川が貫流し、その北岸に三宅(みやけ)という集落がある。そこは
天満宮
由良川の氾濫原(沖積平野)と小高い河川段丘の境目に発達したところ。三宅の西で舘(たち)という集落に接し、延喜式内社・赤国神社が鎮座する。そこは昔、郡衙が置かれたところとも。洪水の虞が少なく、三宅とともに何鹿郡(いかるがぐん)の中心をなしていたのだろう。以久田野(いくたの)と呼ばれるこの辺りには、いくつもの前方後円墳が山野に埋もれ、今昔の感なしとしない。
 三宅集落に天満宮が鎮座する。地域の人々の参拝が絶えない社。豊里中学校の校庭に接して社はある。天満宮の祭神は学び舎に相応しく菅原道真公。一間社流れ造りのささやかな神社であるが、軒周りの彫物からみて創建はどうも明治期以降ではなさそうである。
鳳凰(上部)
笛吹童子と牛
獅子
 天満宮の鳥居をくぐると境内の右手に道真公所縁の大きな臥牛像が奉納されている。 本殿は唐破風の向拝の下(「兎の毛通し」という)に鳳凰が設えてある。破風板の左右、手狭み(てばさみ。向拝柱と垂木の狭い空間)、海老虹梁(えびこうりょう)にそれぞれ「梅」の彫物がみえる。これも祭神道真公との所縁に沿った彫刻であろう。
 向拝奥の梁と向拝柱の間に「笛吹童子と牛」(写真左)、梁下に「龍」(写真左)が設えてある。龍は3本の爪で宝珠をしっかり握りしめ、口を大きく開き舌を立て、目をキッと見開き、左前方を睨み、威嚇し、目じりは赤く充血している。それら彫り物の霊力が邪気を祓ってご神体や参詣者を加護しているのだろう。
 三宅天満宮に参詣し、彫刻の巧みさに感じ入り彫刻師の胸の内をきいてみたくもなったが如何せん時の流れがすべてを打ち消している。しかし彫刻の多くは施主の思いが反映されることは確かであろう。集落の立ち位置や銭の都合、一間社にするか三間社にするか或いは彫り物の絵柄を如何するだの、彫刻師はだれに頼むのかなど様々の思案や期待を込めて天満宮は創建されたはず。しかし施主には彫物師の技量を見通せない不安があったこともまた事実であろう。
 天満宮に参詣し本殿を見上げた瞬間、私は「笛吹童子と牛」の彫り物を見て身が縮む感覚を覚え、しばらく考え込んでしまった。腰に鎌を挿し笛を吹く牧童の目は楽しそうにみえない。前足を折った臥形の牛も和んでいるようにはみえず目に何か魂胆を感じさせる。牧童は牛から延びた太く長い手綱を足で踏みつけ笛を吹いている。その構図は道真公と牛との所縁を具象化したものとも思われない。
 くだんの「笛吹童子と牛」の彫刻は臨済禅にいう十牛図(じゅうぎゅうず)ではないかと思う。神社仏閣でこの種の彫刻を見たことはないが、十牛図を見たことはある。禅にいう悟りに至る段取り(段階)を十枚の書画に仕立て、教戒に使ったとも思われる。図柄は寺院によって様々であるが、その種の彫刻の存在を私は知らなかったのである。
 さて三宅天満宮の「笛吹童子と牛」の彫刻は、臨済禅にいう悟りへの4段階目に当たる「得牛」の場面ではないかと思ってもみる。牧童は現在の自分をあらわし、牛は真の自己を映した鏡。童子は牛の手綱を足で踏みつけ笛を吹いている。牛に逃げられはしまいかと、悟りへの不安の表情を浮かべながら笛を吹いている。悟りへの道半の恍惚と不安が同居するその時の瞬間を彫ったものあろうか。下絵があるのかなかったのかわからないが彫刻師もまた求道の人であるのだろう。
 ※三宅天満宮の近くに白道路町という集落がある。洛西の巨刹・臨済宗天龍寺管長を2度務めた滴水禅師の生誕地がある。

 良い彫刻に出会った。海老虹梁や霊獣等の周りに銘板がないか探したが見当たらない。作風からみて北近畿に数多くの作品を残した中川権次一統の彫刻ではないかと思う。
 権次一統は兵庫県氷上郡柏原(現丹波市柏原)を本拠に、約300年間続いた彫刻師の家系。棟梁は子弟を伴って旅に明け暮れたことであろう。大きな寺社の創建や改築にかかわると彫刻に数年かかることもあるだろう。時には施主から家屋を与えられ、家族とも別れ別れの生活の中で腕を磨き、ひたすらケヤキやヒノキを削り彫り続けたことであろう。彩色し出来上がった彫刻を眺め仕事を終えると、一統は拝殿に一礼し、装束を整えノミや絵筆を携えて、天満宮前の長砂の坂を下ってゆく。そのような権次一統の後姿が見えるようである。−令和6年3月−