奥丹波と丹後・若狭を分け、東西に連なる山地の南北に、細く険しい峡谷を刻み、いくつのも集落がへばりつく。その多くは、棚田で稲を栽培し、かつては冬季の3ヶ月間は亀山(亀岡)や高槻、池田のカンテン屋や造り酒屋に出稼ぎに行く者が多かった。
11月下旬から始まる時雨模様の天候に加え、2、3メートルにも達する豪雪は農作物の裏作を拒む。この地方は北陸とほとんど変わらない稲の単作地帯だった。天候が災いし水田の乾田化は容易に進まず、今日においても稲プラス野菜或いは果樹、畜産を主作目等とする専業農家は皆無に近い。
しかし、昭和40年代に本格化した経済の高度成長期を経て、商工業の発展とともにこの地方においても昭和50年代には出稼ぎの風は廃れ、大半は兼業の農山漁家である。
秋の日、福知山、綾部の幽境を訪れた。ちょうど稲の刈り入れ時だった。山麓の急斜面に、5、6段にもなる稲木(いなき)を組み天日乾燥が行われ、架けた稲周りは鹿除けのネットが廻らせてある。
往くほどに、山路の進路を遮るように突如、鹿が現われた。立派な角を蓄えた鹿は、腰が引けるほどの大鹿だった。さらに進むと、今度は小鹿が2頭。10メートルほど先の山路に佇みこちらを見ている。もはやこのあたりは人の数より鹿のほうが多いようだ。やがて小鹿が山の斜面をピョンピョン跳ねながら下っていく。クマの出没も伝えられ、早々にUターンして里に下る。−平成24年9月−
北近畿における出稼ぎの民俗は藩政期から昭和に至るまで連綿と続いた。出稼ぎに伴う親子の別れと再会が家族の絆を一層強くし、また人々が社会を知り、人の喜びや悲しみを学ぶ機会でもあった。
いま、私たちは飽食の時代に生きている。物心両面ともに恵まれ、家族の日常の営みが突如、引き裂かれることもない。しかし、何か忘れ物をしてはいないだろうか。
「由良川子ども風土記」(1980年発行)に、出稼ぎを綴った丹波の小学4年の児童の作文が掲載されている。参考までに引用させていただいた。作文は丹波の方言で綴られ、親子の別れと残された子の不安が、実に見事に描き出されている。
丹波の方言は北近畿は無論、中国地方の方言と酷似する(京都府下中、概ね園部より西側。中国地方は山陰を除く岡山、広島、山口の概ね脊梁部以南)。方言のわかる人は一層、すばらしい家族の絆を感じ取ることができると思う。筆力のある素朴な文章に涙を禁じえない。
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