丹後の与謝の海に天橋立の松林がくっきりと長く延びる。白砂の海浜にうっそうと茂る松。
時に慶長9(1604)年9月20日、筑前名島城主小笠原隆景の家臣、岩見重太郎の仇打ちが天橋立、濃松(あつまつ)において行われることになった。そこは橋立中、最も松林の幅が広いところで現在、約150メートル。)もある。
重太郎の仇は広瀬軍蔵ら3名。過日、軍蔵は重太郎の父岩見重左衛門と剣術師範役を競っていた。負けた軍蔵はその腹いせに鳴尾権三、大川佐衛門と謀り夜分、物陰から鉄砲で重左衛門を撃ち殺して逐電した。
重太郎の兄重蔵は小笠原隆景から仇討赦免状を得て、妹お辻とともに旅に出る。重蔵が野州(栃木県)下石橋で病に倒れ苦しむ折、たまたま広瀬軍蔵ら3名が通りかかり重蔵は仇打ち挑んだ。重蔵は武者修行中の豪傑。塙(ばん)団右衛門の加勢を得たが、奮戦及ばずに軍蔵らに斬られ亡くなった。
そのころ重太郎は家族の消息を知ることもなく諸国を武者修行中の身。宇都宮城下に入った重太郎は女中に姿を変えた妹お辻と出会う。仇打ちの一部始終を聞いた重太郎は、旅装を解くのももどかしく直ちにお辻と仇打ちの旅に出る。道中、讒言にあい、あらぬ罪を着せられるなどあだ討ちは難渋を極め、お辻は軍蔵の足手まといになることを思い悩み自害。重太郎は武芸を磨きながら仇を探す道中で、伊予国松山藩主加藤嘉明の家臣塙団右衛門や福岡藩主黒田長政の家臣後藤又兵衛と出会い、親交を結ぶ。
廻国中、重太郎は仇広瀬軍蔵らが丹後に潜伏との情報を得る。丹後に入った重太郎は仇を探すかたわら丹後大島、小島に巣くう海賊の話を聞く。海賊を退治し、その功により重太郎は丹後細川藩の客賓となっていた。しかし依然、仇の消息は不明。しばらくして、藩主細川忠興は関ヶ原の論功により九州へ国替えになる。重太郎は九州への下向を勧められたが固辞し、仇を探し丹後を後にし、明智光秀の城下福知山向かう。
広瀬軍蔵らは丹後宮津に潜伏していた。情報を得て宮津に引き返す重太郎。やっと見つけた仇であったが、こともあろうに軍蔵らは細川忠興の後任として丹後に入った藩主京極高知に召抱えられていた。高知が着任早々に天橋立を遊覧中、突風により突然、御座船が転覆したところ、橋立を遊覧中の軍蔵ら3名が通りかかり、高知を救助した功により知遇を得ているというのだ。関ヶ原の戦で小笠原隆景に戦功を横取りされたと被害者意識に凝り固まっていた高知は、隆景の家臣重太郎を快く思わなかった。かつ仇打ちの相手が命の恩人で家臣に取り立てた軍蔵らであったから、仇打ちを快く思わず裁可を渋っていた。しかし重太郎は仇討赦免状を持っている。高知はしぶしぶ仇討を認めたが、軍蔵らに15名の加勢をつける事態におよんだ。仇打ちの日取りは慶長9年9月20日、午後2時と決まった。場所は天橋立濃松であった。
仇打ちの噂はまたたく間に京大坂を駆けめぐった。岩見重太郎の仇打ちを一目見ようと丹波丹後の街道はときならぬ賑わいをみせる有り様だった。
仇討の日の午前中、決闘場となった濃松の砂浜は藩主京極高知が出座し、藩士は源平に分かれて打ち込みの軍事調練が行った。調練が終わるころ、濃松を指して砂浜をぞろぞろと群衆が移動しはじめる。その様は蟻の行列のようであった。
松の茂る海浜の決闘場に竹矢来が回らされた。決闘場は群衆であふれかえり、群衆の外側を宮津藩士3千人が囲む。決闘場の奥正面に紫の万幕が張られ、一段高く設らえた御座に藩主京極高知が着く。脇に小姓、重臣を従え、やや緊張した面持ちで天を仰いでいる。
岩見重太郎の仇打ちのうわさを聞きつけ、京都から丹後をさして駆けつけたた塙団右衛門、同じく大坂から駆けつけた後藤又兵衛がいる。奇しくも天下の豪傑岩見重太郎、塙団右衛門、後藤又兵衛の3人がここ天橋立濃松に集結した。噂を聞いて駆けつけた者に剣豪植松籐兵衛などもいた。重太郎はこれら豪傑から申し出のあった助太刀を丁重に断わる。仕方なく塙団右衛門、後藤又兵衛らは竹矢来のそばに陣どり、軍蔵らが非法な真似をすれば飛び込んで助太刀する構え。眼光鋭く人の出入りを監視して、満を持している。
慶長9年9月20日、午後2時、一番太鼓が打ち出される。襷を十字にあやどった重太郎が控所から場内に出る。対する広瀬軍蔵ら3名は藩士控所から足早に出る。後ろから助太刀15名が続く。決闘場において、大音声で仇打ちの名乗りをする重太郎。続いて、軍蔵は終始落ち着かない様子で、体を半身に構え、何やら大声で叫んでいる。「やい軍蔵、勝負は強い者が勝つわ。」と申し向ける。次いで助太刀の1人が主君の命により軍蔵らに加勢すると申し述べ、場内はシーンと静まり返っている。松の枝がいちじんの風に揺れ、金波銀波の波が漂い、決闘場に陽が射している。
この時、竹矢来を破って大兵肥満の塙団右衛門が6尺の樫棒で地面をドスンドスンと突き決闘場に歩み出る。続いて大きな顔に針金のような髭をぼうぼうと生やした7尺の大男後藤又兵衛が2尺の鉄扇を握って進み出る。口々に卑法な真似をすれば重太郎を助勢すると大声を上げ、軍蔵らを威嚇。重太郎に助太刀を固辞された2人の豪傑の威勢にどーと沸く群衆。皆、重太郎の味方のようだ。
二番太鼓が打出され、いよいよ決戦の時がきた。場内の中央に進み出る重太郎。18名の敵が輪を描き、重太郎を取り囲む。れっぱくの気合とともに敵中に深く飛び込んだ重太郎は、瞬時に2、3人を倒す。四散する仇。態勢を立て直した助太刀が攻撃の輪を縮める。助太刀が斬りかかる瞬時のすきをつき斬り返す重太郎。ものの半時も経たないうちに敵方は半数以下になる。まったく勝負にならないありさまで、藩主京極高知も手の施しようがなく青ざめ、天を仰いでいる。
時よしとみた重太郎はまず、仇広瀬軍蔵を斬り、次に大川佐衛門、最後に鳴尾権三を倒し、本懐を遂げる。重太郎が敵方に終戦を促すと、藩主京極高知は助太刀の家臣を引き揚げさせる。世に言う濃松の決闘は終わった。
後に岩見重太郎は後に薄田隼人と名を替え、塙団右衛門、後藤又兵衛とともに豊臣方に組みして大坂夏の陣に参加し、奮戦したと伝えられる。
一方、宮津藩主京極高知が仇討に15名の助勢をつけたかどでその処遇が問題となった。しかし、幕府は京極高知が禁裏の出身ということもあり、手を下さず特段の処分もなく本件に蓋がされたという。
濃松の決闘異説
濃松の決闘は寛永9(1633)年であり、慶長9(1604)年ではない、岩見重太郎は決闘の後、薄田隼人正兼相と名を変えた、との異説がある。これらの異説は、実在の薄田隼人が大坂夏の陣(慶長19(1614)年)で戦死しており辻褄が合わない。寛永9年説を採れば辻褄は合うが、岩見重太郎は決闘の後、薄田隼人と名を変えたことになる。さたに、重太郎を架空の人物とし、決闘は作り話とする説もあって真相は混沌としている。濃松の決闘は講談の作り話と言う者もでる始末である。当時、著名な剣豪がみな天橋立に参集し、広瀬が15人もの助太刀をつけてもらったにもかかわらず斬られた等々、その筋書きも疑いはじめるときりがない。武蔵伝とよく似たところもある。究極、関が原の戦い後、仕官先がなく廻国の武芸者が多くいた事実はあったにせよ、ネットやTVコマーシャルが存在しなかった時代において、名所の宣伝のため仕組まれた作り話という説に説得力がないわけではない。
世の中には理不尽な出来事が実に多い。人には正義を尊び、悪行を厭う純真なこころがある。正義を阻む諸々の権力は実にさびしく、やがて人の世の審判を受け悲惨な末路をたどった者もまた多い。私たちは、いつも公正無私の心を養いこの世に生きた証をもちたいものだ。
天橋立濃松の決闘跡地と伝えられるところに1基の五輪塔(写真)が立っている。悪行の者もまた人である。死に変わり生き変わりして、みな立派な人になるに違いない。−平成23年2月− |