兵庫
柿本人麿の碑−明石市人丸町−
留火ともしび明石大門あかしおほとに入る日にか漕ぎ別れなむ家のあたり見ず 
                      <万葉集 柿本人麿>
 
 柿本神社(明石市)
 柿本人麿は文武・持統両朝に仕えた万葉時代の代表的歌人である。短歌に長歌、旋頭歌に格調高く、雄渾、荘重な歌を詠って宮廷歌人の名声をほしいままにした人物。しかし、その出生や官位、没年は不詳。晩年、突如として都を去り石見に現れる人麿の周辺情報は余りに乏しく、謎に満ち、私たちを一層、人麿世界に駆り立てる。
ほのぼのとあかしの浦の朝霧にしまがくれゆく舟をしぞ思ふ
 古今和歌集に柿本人麿の詠歌と伝えられる有名な‘ほのぼの詠歌’(上記)がしるされている。藤原公任(平安時代中期の人)の歌論書和歌九品によってこのほのぼの詠歌は最上品とされ、藤原俊成も高く評価した。千年を経て人麿は正一位の追贈を受け、歌聖と仰がれるようになる。斉藤茂吉は、歌の上達を願って掲げる「人麿影供」の軸中、三分の一にこのほのぼの詠歌が使われたと言っている。
 古より明石の大門(海峡)は大和を去るものには寂しさを増幅させ、戻り来る者には懐かしく、晴れ晴れとした光りが射すところであったに違いない。明石海峡に臨む明石市人丸町の高台に柿本神社がある。元和6(1620)年、明石城主小笠原忠政が人麿を祀った社である。市街地の伸展や明石大橋の開通などによって明石浦の景観は様変わりしたが、神社境内からの海景は人麿遺跡中、屈指であろう。

 柿本人麿と石碑
  人麿の遺跡には生誕地や終焉地、詠歌の故地など様々なものがある。明石の柿本神社は明石浦の眺望を歌った人麿の故地に建てられた社である。近年、明石大橋の建設などによって明石浦の眺望も変わったが歌の名跡であることには変わりない。境内に「播州明石浦柿本大夫祠堂碑」がある。寛文4(1664)年10月、第2代明石藩主松平信之が建てた石碑。1680字の長文の石碑である。文は弘文院学士林春斎。信之は父忠国の次男で29歳で明石城主に就き、49歳で郡山藩に転封。55歳で老中に就いたが翌年、死亡している。幕閣に名を連ねるほど有能な藩主であったが、文化への造詣も深い藩主であった。
 柿本神社と名のつく寺社が島根県と奈良県に併せて3か所ある。いずれも人麿の遺跡と言ってよいだろう。その一つ島根県の柿本神社(島根県益田市)である。全国の柿本神社の元社という。地元では人麿様と崇められ、境内に人麿像や正一位柿本大明神祠之碑の石碑がある。石碑は明和9(1772)年、第7代津和野藩主が建て、撰文は京都真如寺の僧顕常で碑文は704文字でまとめられている。矩貞は江戸生まれの江戸育ち。14歳ころ家督を継ぎ津和野の文化の発展に寄与し、隠居後は剃髪し自適の生活をした文人肌の人であった。
 奈良県にある人麿遺跡の一つは葛城市新庄町の柿本神社。もう一つは天理市櫟本に所在する柿本寺址にある。葛城市新庄町柿本は人麿の誕生、終焉地とも伝えており、影現寺(ようげんじ)境内に柿本神社(写真下)があり、神社の左手奥に「柿本大夫人麻呂之墓」(写真下)がある。墓は天和元(1681)年10月、郡山藩主松平信之が建てたもので、自然石の碑陰に12行、474文字の文字が彫られている。撰文は林春斎の子で鳳岡である。松平信之が明石浦柿本大夫祠堂碑を建てた人であることはすでに述べたとおりである。信之は郡山に着任後、人麿の生誕・終焉地が領内の新庄でありそこに祠廟があると聞き、着任後数年のうちに碑を建てている。文を書いた林家3代目鳳岡は信之が明石藩主の在任中、撰文を頼んだ林春斎の息子だった。それから17年後に行われた信之の人麿供養であった。
 奈良県にあるもう一つの人麿遺跡は天理市櫟本の柿本寺址にある。同址に人麻呂塚というささやかな古塚があるのだ。平安時代に藤原清輔がこの塚に墓標を建て、その後、享保17(1732)年3月、歌人森本宗範等が再興し人麻呂歌塚碑(写真下)を建てている。撰文は京都の百拙和尚で613文字が刻まれている。表面の草書体の「歌塚」の2文字は後光明天皇の皇女豊子内親王の筆という。死してなお人麿人気は衰えることがなかった。柿本寺址の東側に和邇の集落がある。古代柿本氏などの発祥地と伝えられるところである。−平成20年1月−
 
柿本神社
(葛城市新庄)
柿本大大夫人麻呂
之墓(葛城市新庄)
姫塚(天理市櫟本)