・・建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬・・ <後漢書東夷伝>
西暦57年、後漢の光武帝に朝賀する奴国の王がいた。光武帝から印綬を賜ったと後漢書東夷伝は伝える。
さらにその半世紀前の紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を置くと、倭国から朝貢があったことを漢書地理誌が伝えている。
中国の史書は、中華思想によって倭国のクニグニの国名に悪字を当て、奴国もまたその例外ではなかった。古代に那津(ナノツ)と呼ばれた今の博多辺りが奴国とされている。
縄文時代から北九州と朝鮮半島との交流を示す遺物は随分多い。武帝が朝鮮半島に楽浪郡などを置くと、倭国のクニグニの王たちは、好機とばかりに前漢の在外公館が置かれた楽浪郡などを行き来したことであろう。中国の王朝は朝貢に当たって上表文を求めるのが常であっ
た。倭国は文字を持たなかったから奴国など北部九州の豪族が楽浪郡などで綿密な打ち合わせをして朝貢が行なわれていたと推察できる。そうした北部九州のクニの役割は、磐井はむろんのこと6、7世紀ころまで続いていたのではなかろうか。時代はくだり、聖徳太子が登場し、対中国政策につきようやく非対等の外交から脱却するころまで、倭国は通商を含め外交交渉は北部九州の豪族の利権となっていたと考えられる。
博多湾に注ぐ那珂川の上流に春日市がある。そこは春日丘陵やその周辺に弥生時代の中期から後期にかけての集落跡等が広範に分布するところ。同市須玖岡本遺跡から弥生時代の豪華な遺物が出土し、奴国の王墓と推定されている。大石の下から、甕棺、中国鏡30面以上、銅剣、銅矛、銅戈、ガラス製の勾玉、ガラス製管玉、ガラス璧などが出土したのである。
春日市に奴国の丘歴史公園や奴国の丘歴史資料館が整備され、同公園に須玖岡本遺跡の王墓(写真上)が移設されている。
北部九州各地には、このような中国製の鏡、銅剣、ガラス製勾玉又は碧玉等を副葬する弥生時代の墳墓が随分多い。全国的にみてもこのような墳墓が密集するところは九州以外にはない。ヤマト王権の成立や墓制の成立過程を解明する重要なヒントが九州にあるゆえんであろう。 |
奴国の丘歴史公園(移設の
須玖岡本遺跡) |
奴国の丘歴史公園
(覆屋) |
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三角縁神獣鏡のこと |
北部九州のクニグニの首長と中国王朝との接触は紀元前後から倭国諸国の朝貢というかたちをとり、それは卑弥呼やその後の時代にまで続く。朝貢時に中国の王朝から下賜された鏡をめぐり意見の対立をみて久しい論争に邪馬台国論がある。論争は、卑弥呼の所在地につき、北部九州か大和(奈良)かと大論争に発展して久しい。
卑弥呼の使いが景初3(239)年、魏に朝貢し奴婢や反物を献じた。その答礼として卑弥呼は金印紫綬を授けられ、親魏倭王となり、倭人を慰撫し、忠節に励むよう説示されている。併せて、魏の皇帝は卑弥呼に対し、特に汝に賜うものとして銅鏡百枚、真珠、鉛丹五十斤などの財宝を下賜している。前者の金印紫綬はいわば魏の属国として公務の用に供する官印が与えられたのであり、後者の財宝は卑弥呼の個人所有用に下賜されたものだ。魏の皇帝は倭国の統治に金印紫綬を授け卑弥呼に倭人を慰撫するよう期待しているが、卑弥呼個人に下賜した銅鏡等の財宝を傘下の諸国に配るようには指示していないし期待もしていないのである。魏志倭人伝は公私の別につきそのように書き分けられている。
卑弥呼の時代より遥かに遠い時代、北部九州の三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡に葬られた王たちは30面以上の鏡を埋納していた現実から推して、卑弥呼に下賜された鏡百枚は個人所有物としてそれほど大量とも思われない。そのとき下賜された他の財宝とセットにして卑弥呼が祭祀に費消したり、自分の墓にすべての鏡を埋納したとしてもおかしくはないほどの量であったと思われる。
邪馬台国論争はこの銅鏡が邪馬台国の物的証拠として採用され、とくに畿内説の有力な根拠とされて久しい。下賜され持ち帰った鏡は分配されたという前提のもと、その分布密度から邪馬台国の所在地を推し測る手法がその核心をなしている。京都府の山城町に椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳がある(写真左下)。前方部をJR奈良線が通過し、昭和27年に古墳の一部が土砂崩れをおこした際、復旧作業中に後円部の石室を開いた作業員によって多数の銅鏡が発見され、持ち出されている。回収された鏡は36面とも40面ともいわれる銅鏡中、32面が卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡であった。古墳は木津川右岸の尾根上に築造され、眼下に平野がひろがるところである。また近年、天理市所在の黒塚古墳から三角縁神獣鏡33面が出土した。両古墳から併せて65面の卑弥呼の鏡が出土したのである。黒塚古墳は崇神天皇陵や箸墓に近い。さらに椿井大塚山古墳及び黒塚古墳の三角縁神獣鏡の同范鏡の分布は東は関東、西は九州に及び、邪馬台国大和説を補強していることは疑う余地もない。しかし、@卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡は果たして三角縁神獣鏡であったかどうか。それが三角縁神獣鏡であったという記録はどこにもない。出土した三角縁神獣鏡に景初年間の記銘があるからといって卑弥呼が得た鏡であるという証拠にはならない。A在地の首長墓とみられる古墳からそれぞれ30面を超える三角縁神獣鏡が出土し、既知の三角縁神獣鏡を含めると数千枚にも及ぶ三角縁神獣鏡が倭国内に流通していたことになるが、いかにも多い。魏王朝が繰り返し、繰り返し卑弥呼に鏡を与え続けたという記録はない。そうすると、三角縁神獣鏡は中国本土からは出土しておらず、国内で大量生産された可能性が否定できにくい。Bさらに三角縁神獣鏡が出土した椿井大塚山古墳と黒塚の両古墳を含む古墳の築造年代につき、年代確定に資する客観的な資料がない。古墳の編年からそれらが3世紀中乃至4世紀初頭の古墳であるといっても墓誌銘の知見がなく遺物の炭素分析等を経た科学的な評価も行われていない現状からにわかには信用できない。卑弥呼の時代を下る時代に、中国文献を下敷きにして渡来人によって三角縁神獣鏡が大量に制作され、埋納された可能性も否定できない。C三角縁神獣鏡の分布が畿内に偏在する事実は、銅鐸文化の畿内的伝統が相当長く存在したからであり、卑弥呼に直結しない、等々の疑問が湧くのである。
私はどうも、それは5世紀ころに倭国内の統治につき中国王朝のお墨付き(宋との冊封関係下における官爵)を求め朝貢したいわゆる倭の五王の時代に作出された鏡ではないかと思ってもみる。倭王武(雄略天皇)の上表文などをみると、武は自らを安東大将軍、倭国王と名乗り、東国から北九州に至る国々を支配下に置き、朝鮮南部にもその支配権を及ぼしたなどと修飾文を連ね、高句麗王、百済王と同格の「開府儀同三司」(1品)への任命を求めたが、宋皇帝から認められることはなく、遣使は487年をもって中止された。以降、倭国の王は宋王朝との没交渉時代が長く続くのである。他の倭国王も基本的には武と同様に、宋との冊封関係下において官爵を求め渡海したが、倭国王が朝鮮半島の諸王の地位を上回ることはなかった。鏡或い鉄剣などはその際、倭国の王・・「武」を想定するのであるが・・・によって国内の豪族に配られたものではないか。それは倭王武の上表文のような諸国を平らげ、服従させたというようなものではなく、協調関係にあった豪族に対し行われた配布であったに違いない。その際、自らを卑弥呼の後裔として強く印象付けるため、渡来人をして鏡を作らせたものではないか。三角縁神獣鏡も、同鏡を包摂する古墳もともに倭国内で鋳出された5世紀ころのものかと思われる。古墳の築年等につき今後、遺物の炭素分析等を経た科学的な評価が行われることに期待を寄せたい。−平成18年6月− |
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椿井大塚山古墳 |
黒塚古墳 |
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