九州絶佳選
福岡
立岩遺跡−飯塚市立岩−
 飯塚市の市街に立岩というところがある。遠賀川の右岸に、川の流れに沿って小高い丘陵がある(写真上)。立岩という地名もたぶんこの地形から生まれたのであろう。この丘陵一帯が立岩遺跡である。弥生中期ころの遺跡とされている。いまは住宅地となっている。
 紀元前1万年のころ、遠賀川の河口は今よりよほど内陸部に入り込み、直方の辺りまで海岸線であった。そのころすでに立岩に住みつく古代人もいたようである。
 縄文時代から始まったであろう九州の稲作文化は、弥生時代になり金属器に接するようになると一挙に花開いた。鋤や鍬先に青銅や鉄を履かせ、稲作の生産性は一挙に高まっていく。集団内に強力な権力構造が生じ、富が蓄積されるようになると、ようやく北部九州に末盧国、伊都国、奴国などの国々が登場し、東アジアの歴史に日本のページが刻まれるようになる。魏志倭人伝はそうした倭国の国々の実情が生き生きと描かれた地理書といえるだろう。
 伊都国は前原市、奴国は福岡市、春日市等の地域に比定されている。伊都国の三雲南小路遺跡(三雲・井原遺跡)、奴国の須玖岡本遺跡等は、甕棺から前漢鏡、剣、勾玉等の装身具が出土し、王墓とみられている。三雲・井原遺跡は60ヘクタールにも及ぶ広大な遺跡である。土器、装身具等の出土品から国内はむろん大陸との活発な交易を示す遺物が出土している。伊都国は、東アジアに商圏を持つ国際商業都市的性格が漂う遺跡といえるであろう。須玖岡本遺跡については、中国の光武帝から金印を授与されるほど発展した北部九州を代表する奴国の中心部の遺跡であろう。奴国は、いち早く金属器を導入し、那珂川、御笠川の流域に展開する農業を主産業とした国ではなかったか。
 立岩遺跡は、標高40メートルほどの小高い丘に散在する下ノ方、焼ノ正、堀田の各遺跡の総称である。この丘は石包丁など石製品の製造販売を核とする工業国の中心であったのだろう。堀田遺跡(写真左上)の甕棺墓から連弧文鏡、重弧文鏡など10面の前漢鏡、銅矛、鉄剣などが出土(写真下、パンフから引用)し、立岩遺跡は三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡と同様に弥生時代中期の遺跡とみられている。石包丁等は近くの笠置山から採取された岩石を材料としたもの。九州一円に分布する石包丁の一大生産地であった。石製品は石包丁にとどまらず、石剣、石鎌、石戈等多種多様な石製品が生産され移出された。これほどの規模を持つ国が魏志倭人伝等の文献に登場しないのはまったく不思議である。たぶん伊都国や奴国が栄えていた1、2世紀ころには立岩は衰退し、産業活動にも精細を欠いていたのかもしれない。つまり、立岩遺跡は青銅器鋳型が出土しているものの、その多くは石製品に特化しており、この工業国は鉄器が主流の時代に至っても産業転換が進まなかったのかもしれない。
 堀田遺跡出土の前漢鏡は数センチの小型のものがいくつか出土している。一般的に、年代が新しくなるにつれて鏡の口径が大きくなる傾向からみて、立岩遺跡は三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡より少し古い時代から栄えた遺跡ではないだろうか。諸国で剣や鎌などに鉄が用いられるころ、石製品にこだわった立岩遺跡は、衰亡の道を辿ることになったのであろう。
 甕棺、銅鏡、銅矛、石剣、石戈など立岩遺跡の出土遺物はすべて「飯塚市歴史資料館」に保存、展示されている。前漢鏡の出土を契機にして中国西安市から兵士、将軍、武官の兵馬俑複製等の寄贈を受け、休憩ホールに展示されている。そのほjか飯塚地方の歴史民族資料の展示も豊富である。折々に特別展が開催されている。飯塚探訪の入口にされるとよいだろう。大変よい施設である−平成17年11月−


立岩・焼ノ正遺跡

立岩・下ノ方遺跡
蓮弧文鏡 銅矛