石垣集落(外泊)−南宇和郡愛南町外泊−
 宇和海の九島や遊子水荷浦などで見上げるような石垣を積み上げ、段畑農業が行われている。外泊(愛南町御荘)では西向きの急傾斜地に高い石垣を積み宅地を造成し、雛壇のように美しい石垣集落を形成している。家屋周りは吹きつける風や潮への対策として風除け、塩害除けの石垣を巡らせる。家屋わきの若干の畑地はアサジリ。自家用の日々の野菜を植える畑を南予ではそのように呼ぶ。石垣の窪みは遠見の窓。出船、入船など港の様子が手にとるようにわかる。
 外泊集落の道は街中や段畑への道を問わず石畳の道。隈なく石を敷き詰めた道が通る集落である。甘藷や麦を栽培したという急傾斜の農道は、コンクリートよりも踏ん張りが利く石がよい。段畑の石垣でノジギクやツワブキの花が咲いている。
 波止場から眺めると集落はまるで城郭のように見える。潮は澄み、岸壁周りでバン(メジナ)の幼魚が苔をはみ、色とりどりの小魚が泳いでいる。もうここは亜熱帯の海を思わせる。黒潮が流れるところだ。
 外泊は幕末期に隣村の中泊の2、3男の分家対策として拓かれた集落だという。戸数約40戸。山に登れば由良半島を望むことができる。

江波石工のこと
  瀬戸内海は石の宝庫。豊臣秀吉は諸大名に瀬戸内海の島々から石材を調達させ、大坂城を築いた。小豆島など瀬戸内の島々を歩くと、忘れ去られた城石に巡り合うこともある。
 秀吉の大坂城築はまた、石材の調達に伴って多くの石工を育て、砕石や石積みの技術を育んだ。小豆島、庵治(香川県)、江波(広島市)、周防大島(山口県)などにはそうした技術を身につけた名工の集団ができ、その後も中国地方の山中や四国にまで出稼ぎの足をのばし、九州に渡って定住する者もいた。
 愛媛県の海浜にみる段畑(だんばた)も初めはそうした石工による築立てによって造成されたものであろうか。三瓶(町)を訪ねた際、大正生まれという古老は石屋を‘エラさん’と呼んでいたと言う。エラさんと呼ぶのは、幕末〜明治時代ころから江波(広島市)から出稼ぎに来ていた石工を指すものと思われる。今は山林と化した山腹の段畑や城石の如く反りの入った乱積みの立派な家屋の石垣を見るにつけ、伊予の石垣に江波石工の足跡を思うことができよう。−平成23年11月−