遊子(ゆす) 水荷浦(みずがうら)の段畑−宇和島市遊子−
水荷浦の段畑(拡大1260pX
  四国の西端、佐田岬半島の南方海域は四国山地が宇和海に落ち込み、切立つ断崖を波濤が洗うリアス式の厳しい地形が続き、約1400キロに及ぶ海岸線は全国屈指。耕地は少なく、人々は半農半漁の生活を営む。
 江戸時代に開墾が奨励され、耕地の少ないこの地方では急峻な山腹を拓き畑地に変えた。明治時代になると石垣を積み段畑(だんばた)は絶壁に見える山の斜面にまで耕地を生み出し、水利のあるところでは床固めをして水田に変え或いはサツマイモや麦などを植え、食料の増産に励んだのである。
 宇和海の湾頭部の段畑は、はじめから農民に石積みの技術が備わっていたわけではない。三瓶町在住の古老(87歳)は‘昔は部落に1軒は石屋(石垣職人)がありました。エラさんとゆうて石垣の築立てをたのみました。’と語る。エラさんは江波(広島市)の石工と思われ、石材店の通称となるほどこの地方にも進出していた名残であろう。瀬戸内海沿岸には江波や庵治(香川県)、小豆島、周防大島(山口県)に多くの石工がいて、波止場や塩田、棚田の石垣の築立てを行った。江波の石工は広島の山間に深く入り込み、九州、四国にまで進出して石垣を築いたのである。
水荷浦の段畑
 宇和島の九島や遊子は昔から段畑で聞こえたところ。近年、食糧事情の変化やハマチや真珠貝の養殖などにより段畑が次々と消えたが、遊子の水荷浦では明治時代以降、今日まで営々として段畑農業が続けられている。遠くから水荷浦を望むと、山腹全体がコンクリートの壁のようにも見え、近づくとそれが段畑であることに気づく。サツマイモや麦からジャガイモ(男爵)に作目が変わり、その味が良いところから大阪市場に出荷され人気があった。今は遊子を訪れた観光客等が予約注文することが多く、市場に出回ることはなくなったという。
 水荷浦は‘嫁に来るなら水もってこい’と言われた渇水の常襲地帯だった。水もなく耕地jなかった水荷浦に、住民は僅か4、5平方メートルの畑を生みだすために4、5メートルもの高い石垣を営々と積み上げてきた。戸数40戸ほどの人々の労苦を思うとき、私たちは水荷浦に刻苦の気風をも学ばねばならない。
 段畑の狭い農道というより通路のような道を歩くと、棚田の向こうに宇和海が広がり、真珠の養殖筏が浮かぶ。段畑もまた宇和海の風景遺産だ。-平成23年10月-