宝厳寺−松山市道後湯月町−
  
 はねばはね踊らばをどれ春駒ののりの道をばしる人ぞしる
                            <一遍上人>
 あかあかと一本の道通りたり霊きわるわが命なりけり
                            <斉藤茂吉>
 宝厳寺は、道後温泉のネオンきらめく 長い坂を上りきったところにある。創建は天智4(665)年。法相宗、天台宗を経て正応5(1292)年に時宗に改められたと伝えられる。一遍上人の生誕地として名がある。
 一遍上人は、延応元(1239)年、伊予の豪族河野通弘の第2子に生まれ、10歳のとき母の死にあい通弘の命によって出家。大宰府の念仏上人聖進の下で修行を積み、文永11(1274)年に熊野権現に参篭して悟りを開き時宗を開いた人。弘安2(1279)年、専ら宗教的感興にまかせて踊る「念仏踊り」をはじめ、信者とともに全国各地を遊行し、生涯の大半を旅に費やした。貴族、農漁民など各層の支持を得て捨聖、遊行上人と呼ばれ生涯、一所不在を通し、正応2(1289)年、兵庫の観音堂で没。享年51歳。寺は、仙阿が宝厳寺の住職になったときに時宗に改められた。
 宝厳寺で鎌倉時代頃から生前の逆修や戦乱で命を落とした人々の供養等の趣旨から名号などを刻んだ板碑の造立が盛んになる。時宗など浄土教の影響ではないかと思ってもみる。板碑の分布をみると、一遍上人ら浄土教の教祖の足跡と重なる。専修念仏の教義によって諸国を遊行した一遍上人の強い影響下でその造立が行われたのではないだろうか。
 一遍上人の歌(標記)は、江州守山に滞在中、延暦寺東塔の重豪が尋ねきておどり念仏を非難したときにこたえた歌。斉藤茂吉の歌は境内に顕彰されている。茂吉が宝厳寺を訪れたのは昭和12年5月。この地で詠んだ句ではないかもしれないが、霊きわるわが命の寺として相応しいものだったのだろう。歌人川上次郎が茂吉の遺髪を受けて宝厳寺におさめている。−昭和16年7月−