正花寺の聖観音立像−高松市西山崎町-
  堂山の山腹に鎮座する山崎綱敷天満神社の梅の花がほころび始めた。神社の拝殿下や参道沿いの菅原道真公ゆかりの五色梅などが立春を過ぎポツリ、ポツリと咲いている。
 神社のある堂山の山麓に立つと、眼下に讃岐平野を一望できる。 山崎は古くは中間(なかつま)の郷中にあり、南海道を辿り讃岐の国府に通ずる要衝地である。
  神社の西側の丘陵上には秦久利一族の居城・北岡城址があり、東側に正花寺(しょうけいじ)(写真下)が山崎八幡神社近くにある。さしずめこのあたりは、堂山の麓に花開いた文化ゾーンであったのだろう。近年、天満神社の裏山に綱敷公園が整備され、シーズンには桜花や平野の観望を楽しむ市民で賑わう。
正花寺
正花寺
正花寺聖観音
聖観音立像(正花寺)
  菅原道真公は、讃岐の国司であったころしばしば当地を訪れ、詩歌の吟遊を楽しんだと伝えられる。任があけ帰京した道真公は、延喜元(901)年、大宰府権帥として筑紫に向う途中、高松の香西浦で親交のあった久利長門守との別れを惜しみ、さらに筑紫に伺候した久利長門守に五色の飛梅(唐梅)一顆と和歌(下欄)を与えたと伝えられる。
  正花寺は讃岐の天平二仏のひとつ聖観音立像(写真右下)のある寺。長尾の願興寺の聖観音像が乾漆の坐像であるのに対し、正花寺の聖観音は榧(カヤ)の一木造りの立像である。桧(ヒノキ)造りとする説もある。唐招提寺の衆宝王像などの諸仏と類似点があるが単なる和様の像ではなく、ふっくら顔立ちの中にも厳しさがある。感じることがなかった荘厳さを感じてしまう。また体躯と蓮肉まで一木造りという造像の変遷史上、注目される仏像である。体躯と顔立ちの魅力ゆえ、今日まで人々の信仰を得て1200年余の時の移ろいを見守ってきた奇跡のみ仏といえるであろう。30有余年前、3年ほど奈良の西ノ京で過ごしたことがあって、唐招提寺や薬師寺辺りの田園風景や唐招提寺の鐘の音が忘れられない。聖観音の顔などを眺めていると唐招提寺の講堂あたりの諸仏と錯覚してしまう。もっとも正花寺の聖観音の写真をながめながらそのような回想が浮かぶのである。

  おもいきや 心つくしのはてにきて 昔の人に遭わむとは
                        <菅原道真>
  現在、正花寺は無住寺となっていて、聖観音立像は本堂脇の宝蔵庫にあり日常、拝観することは困難な状況となっている。「たしか正月三が日は開帳されていたはずですが・・・」と、地元の人。
  それにしても、どのような経過をたどりこの草深い山寺に天平のみ仏がまつられるようになったのであろうか。東大寺、唐招提寺の寺領地の関係などから中間郷に落ち着いたのであろうか。流転のみ仏は収蔵庫で衆生の平安を見守っておられる。
  奈良の仏像や伽藍に仏教芸術を見出したのは、明治17年に奈良旅行をしたアメリカ人フェノロサだった。屋代弘賢のように江戸期に芸術を求めて大和巡礼を試みた人もいるが、芸術として意識されていたのは書道、金石の類であった。私たちの祖先は、飛鳥天平の諸仏に千年以上の長きにわたり、まったく仏像や伽藍に芸術の片鱗をも意識することはなかった。世界の潮流がタクラマカンや天山、パミールを越え六朝、唐を飲み込み本邦に流下し、唐招提寺の円柱或いは諸仏の造形に映るギリシャやガンダーラに気づくこともなかった。暗幽とした内陣や伽藍にただただ畏れを感じてきたのである。
  私たち仏教徒には、寺や仏は花祭りなどの法会や法事ごとで出入りする信仰の場であってそれらを芸術として意識するまでには至らないのである。もっとも、飛鳥大仏、百済観音、広隆寺の思惟像などは古色を漂わせ余りにも大陸的、個性的であるがゆえに、見慣れた和様の仏像とは異なる非日常性から何かしらの美を意識することはできるだろう。天平仏にもそれに近いものがある。飛鳥天平仏の姿の非日常性と造像の古さが信仰と遊離して、私たちはギリシャ世界のビーナスと同じ目で仏をみてしまうのかもしれない。

 参考: 藤原仏の系譜 古保利薬師(福光寺廃寺)