追憶の港町−明浜町高山−
  宇和海に開けた明浜町の西端・大崎鼻から海岸線に沿って国道を南に下り、「田の浜」を過ぎると「宮野浦」、さらに進むと「高山」の町に至る。道路端に役場が建ち、入り江を囲むように住家が密集する町である。
  高山は、明浜の玄関口。前面に港湾が開け活気が漂う町である。住宅地に入ると、外壁に杉板を多用した総二階の南予特有の木造住宅が軒を連ね、居心地のよい港町の雰囲気が漂っている。
  役場近くの国道脇に常夜燈が2基、展示されている。いずれも高山の若者組が地元の賀茂神社に奉献した常夜燈である。1基は「高山に5カ所あった若者宿の24歳までの年長連中が奉献」、もう1基は「宇都宮家を宿とする者が寄進」したものと考えられる、と説明書きがしてある。若者宿の名残をとどめる遺物として貴重であり、若者の宿主への感謝の気持ちが伝わってくるようである。
  若者宿は、戦前まで日本のいたるところに存在した。特に、四国の島嶼部や漁村などでは普通にみられた。若者が、集落持ちの宿所や有徳者宅に寝泊まりし、地域の神社の祭礼や夜警、防災活動などをしながら実社会を学ぶ習慣が存在したのである。大概の若者は、特段の事情がない限り15歳にもなると若者組に加わったものである。高山のような大きな集落では、分宿或いは年齢差による組区分も存在したことが灯篭の説明書きから推察できる。当然、女子には娘宿が存在するところもあった。
  戦後、社会の民主化運動が進められ、若者宿は青年団組織に変わり或いは旧習の民俗として批判を受け、昭和40年代までその形式を残す地区もみられたものの、日本の社会からおおかた姿を消してしまった。こうした組組織に限らず、農耕や漁労にかかる年中行事などについても、その多くは姿を消していったのである。
  共同生活を通じて、社会を学び人を知る若者宿の体験は貴重であった。請うて宿に入れる親もいたのである。果たしていま、私たちは、地域社会を批判できても人に徳育を授ける資格と手段を持ち合わせているだろうか。2基の常夜燈は、静かに何かを語りかけているように思う。今日、若者達が率先して地区のボランティア活動に参加する姿はほとんど見かけなくなった。年長者が後輩の非違を諭したり、進んで地区のボランティア活動に精出す若者をみる機会も少なくなった。いつのまにか欧米の社会よりはるかに個人が優先される社会になってしまった。
  高山の町はずれに「鯨塚」が顕彰されている。天保年間に寄鯨によって飢饉を凌いだ地区の人々によって、手厚く供養され祠に祀られている。鯨に「隣王院殿法界全果大居士」の戒名を付け、高山の金剛寺の過去帳に記録されているという。地区の人々は、鯨に大名級の戒名を付け、報謝の趣を表したのである。飢饉に襲われても恵みをもたらす海への感謝の意味も込められているように思う。
  明浜の宮之浦や狩浜から縄文時代の石斧や釣針が出土している。 入り江の町は住み心地がよく、古くから栄えたところだった。

高山の常夜燈

碆ノ手鯨塚
■ 高知県宿毛市に残る「浜田の泊屋」は、高床式の若者組の宿泊所である。同宿泊所を模した建物が香川県高松市の四国村にあり、同園の入場受付所となっている。