とうかさん−広島市−
 ‘とうかさん’は、広島市中区三川町にある園隆寺境内の稲荷大名神の夏まつり。‘稲荷’を音読みして‘とうか’さんである。
 広島地方では、この日から浴衣を着る風習がある。
 祭りの日、園隆寺境内(写真左)は提灯が飾られ、浴衣を着た参拝者でうまる。6月2日から4日までの3日間、午後7時から中央通りは歩行者天国になり、大きな行灯が通りに並び、踊りやパレードが行なわれる。金魚すくいや風船つり、焼イカ、かき氷の店など数百店の露店が軒を連ね、実に賑やかなものである。広島三大祭りの一つ。−平成18年6月−
亥の子神楽−安芸郡坂町中村−
・・いのこ いのこ いのこ餅ついて 祝わん者は 鬼生め 蛇生め・・・
 広島は、亥の子祭りの行事が県下各地に残る。坂町の中村迫地区もそのような地区ひとつである。
 中村迫地区では、第二次世界大戦後、休止されていた亥の子祭りが復活し、毎年旧暦10月の亥の日に近い休日に亥の子祭りが行なわれてきた。
 この地区の亥の子歌は二種類ある。上記の歌詞は民家の庭先で亥の子石をつき、歌うもの。もう一つは神社などの境内で歌う亥の子歌がある。・・・六つ無病息災に、七つ何事もないように・・・と亥の子石をつきながら数え歌のようにして歌う。いずれの歌も、四国地方で歌われる亥の子歌に酷似している。
 夜に舞う亥の子神楽は、特異なものだ。地区の荒神社の境内と民家の庭で舞われるが、子供が舞子の中心になっていて、演目も広島地方で舞われる一般的な神楽に子供の亥の子祭りらしいアレンジがある。地区の亥の子神楽保存会によって伝承されている。
 今年の中村迫地区の亥の子祭りは、朝から小雨模様のあいにくの日。会場を地区の公民館に変更して午後6時から亥の子神楽がはじまった。公民館の講堂の四隅に高張り提灯を立て、亥の子神楽は舞われる。五景の舞で構成され、太夫の清めの儀式の後、岩戸舞、刀舞、網舞、鬼切り舞、鯛つり舞が順次演じられる。岩戸舞は姫の舞で岩戸が開いて光りをとりだし、世の中を明るくし、鬼切り舞で世にはびこる鬼をツナという者が退治し、鯛つり舞は平和になった世の中に恵比須が現れ小猿をお供に鯛を釣り上げるというストーリー。姫とササラを持ったおかめとひょっとこを絡ませるゆかいな所作は、岩戸舞の見せ場。うまいものだ。鯛つり舞で恵比須が飴や菓子をまくところは、一般的な神楽の恵比寿舞と共通する。
 亥の子神楽は、秋の収穫に感謝し、翌年の豊饒を祈願する行事といわれる。荒神は農業神でもあるのでそのように解釈されるのだろう。亥の子神楽は子供が主役。おかめとひょっとこはササラを持って登場する。この神楽にはホウソウなど悪疫退散の祈願も込められているのだろう。尾道のベッチャー祭りではショーキーなどがササラを手にして、こどもの頭などを叩くしぐさは悪疫退散の祈願が込められている。ササラは神聖なものとして扱われる。
 文政5(1822)年に長崎から日本に入ったコレラは北九州、山陽道を汚染し東海道にまで蔓延し、その後、しばしば猛威をふるい10万5000人(明治12年)にもおよぶ死者を出す大流行をみるときもあった。ひょっとこの腰に下げられら赤い鼻緒のわらぞうりは、大きなぞうりをつくってつりさげておくとコレラ除けになるという俗信があったからたぶんそのようなまじないの意味をもつものであろう。
 また、坂町では、飢饉による栄養失調死に加え、ハシカかホウソウの疫病によって天保8(1837)年に412名、同13(1842)年に434名の死者が出ている。諸国の廻船などの往来がある海浜の町は、いつも疫病の伝染経路になる脅威にさらされていたのである。亥の子神楽にはそうした悪疫から子供を守る祈りも込められていたのだろう。−平成18年11月−