いのこうた−徳島県、香川県等-
 一に俵をふりまいて  二ににっこり笑わして  三にゃ酒造らして  四つ世の中よいように  五ついつものごとくなり  六つ無病息災に  七つ何事ないように  八つ屋敷を建て広げ  九つ小蔵を建て並べ  十でとうとう治まった   ヘイトウヘイノヘイトウヘイ 
      <徳島貞光町まちなみ交流館展示。原文のまま> 
  冬も近い旧暦の10月の最初の亥の日にぼた餅やおはぎを食べ、家族の健康や繁栄を願う年中行事が日本の各地で行われていた。子供らは、地区の家々を訪問し、丸い石に縄を張り、「いのこうた」を歌いながら四方から石を上げ下げし庭先の地面を叩いてまわった。いのこ石に替え、里芋の茎などに縄を巻き上げたホテ(突き棒)や笹竹を用いるところもあった。子供らは、家々からお礼に餅や菓子、炒り豆などをもらったものだった。西日本では亥の子の行事が終わると季節風が吹き始めコタツをだすところが多かった。
ホテ  徳島県貞光町端山字猿飼では、いのこの日に「いのこうた」が歌いつがれてきた。行事は平成2年から途絶えているが、関係資料が「貞光町まちなみ交流館」に展示(写真左)されている。「いのこうた」で使用する道具は、サトイモの茎を藁で包みその周りを縄でぐるぐる巻いたもの(ホテ。猿飼では「イイチニタラ」と呼ぶ。)と、短く切った丸太の周りにカズラの縄を付けたもの(いのこ石に替わるもの。「立てずき」と呼ぶ。)が用いられている。立てずきの方は夜いのこに使用されたもののようである。二様の道具が使い分けられ、併存している。いのこ石は字のとおり石であるが、香川県下ではワラで編み上げたもの用いるところもあった。

  源氏物語の「葵の巻」に、『その夜さりゐのこのもちまゐらせたり』とあり、いのこ行事の起源は平安期以前に遡及できる。民間では、猪(いのしし)の多産に結びつき、加えて農村部では農業の豊饒への願いからいのこ行事が行なわれるようになった。
  戦後、生活様式等の変化や旧習を引きずる行事としていのこ行事は廃れ、「いのこうた」はほとんど消滅してしまった。貞光町猿飼の「いのこうた」三瓶町皆江に伝わるいのこ石についても現在、休止中とのことであり、消滅しつつあるといえる。しかし、四国島内では、いのこ行事が比較的多く残っている。愛媛県西予市三瓶町皆江や宇和島市の農漁村地区などで、現在もなおいのこの日に、「いのこうた」が歌いつがれている。土地の者は、いのこ石を「ゴーリンサン」(写真右。三瓶町皆江のいのこ石)といっている。愛媛県下では、広くゴーリンサンである。突き棒はホテ又はボテと呼ぶところが多いようである。歌詞は、数え歌の部分は太宗同じであるが、細部に地区、地区のアレンジがある。数え歌の歌いはじめ、歌い終わりの歌詞があるところとないところがあるが、こちらの方は数え歌部分より地域差がある。
  猿飼の「いのこうた」は、愛媛県周桑郡田野村高松(現丹原町)のそれと酷似している。僅かな相違点は、猿飼の「いのこうた」に歌いはじめの歌詞がない点くらいであろう。猿飼の歌にも、もともと歌いはじめの歌詞があったかもしれないが欠いている。終戦直後、和田茂樹氏が採集された周桑郡田野村高松の「いのこうた」と猿飼のそれとを比較されるとよい。
  ごーりん ごーりん 
  こいさらゐのこ ゐーのこ餅ついて 
  いははんしゅうも いはうたしゅうも 
  だいこくさんののうこで
   一にたーらふまへて 二ににっこり笑う 三に酒をつくって 
   四つ世の中ええように 五つものごとくにて 六つむーりょう
   (無病)息災に 七つ何事ないように 八つ屋敷をうちひろげ
   九つ小蔵を立てならべ 十でとーんと治まった
  ぜにが湧いたらワイワイワイ
  かねが湧いてもワイワイワイ
  はんじょうせいはんじょうせい 
           <「四国文化」(昭和22年) 原文のまま> 
  香川県の西讃地方や小豆島などで歌われた「いのこうた」もまた数え歌部分は猿飼、田野村の歌と酷似している。このような四国島内における「いのこうた」の酷似性は偶然に生じるものではなく、いのこうたに先行する芸能の存在を示唆してはいないだろうか。
  かつては正月などに農漁村を訪れ、めでたい歌詞を歌い門付けをして歩く人々がいた。高松(香川県)では、年はじめに「春駒」、「大黒さん」、「恵比寿さん」と呼ばれる芸能を演ずる人々がやってきて門付けが行なわれていた。おめでたい歌詞を述べ新年を祝うのである。加藤増夫氏が高松で調査されたいのこうたの歌詞をみると、数え歌部分は四国各地の「いのこうた」と酷似している。猿飼の「いのこうた」が大黒・恵比寿さんの祭りであることを考慮すれば、猿飼を含む四国の「いのこうた」の原形は「大黒・恵比寿さん」ではないだろうか。高松に限らず四国各地を回り「大黒・恵比寿さん」を演じた人々が歌詞を広め、しだいに地域に定着していったのであろう。「正月」と「いのこ」の時期は異なるが、めでたさの趣旨は同じである。大黒さんの歌詞は「いのこうた」にも流用できる。歌い始め、歌い終わりの歌詞をアレンジしながら、地域、地域の「いのこうた」が成立していったと考えられないか。そのように考えるならば、歌詞の酷似性は容易に理解できるであろう。加藤増夫氏が採集された次の「大黒さん」の歌詞と既述の猿飼や田野村の「いのこうた」と比較されるとよい。
 きたわいな来たわいな なにが舞うてきたわいな 大黒さんとい
 うひとは
  一に俵をふんまえて 二にあはニッコリ笑いだし 三にはさー
  け(酒)つくりこみ 四つ夜の中よいように 五ついつものごとく
  なり 六つ無病息災に 七つなにごとないように 八つ屋敷を
  たてひろげ 九つこなたに蔵をたて 十(と)でどっさり納まった
大判やこう(小)判や 一分や二朱や白銀(しろがね)なんどがわ
いてきた
福はこなたへドッサリ納まった 
        <「高松の歳時記」(昭和47年) 原文のまま >
直島のいのこ石  しかしまた、四国の「いのこうた」の歌詞に例外があることも否定できない。瀬戸内海の塩飽諸島に「直島」という島がある。この島にも「いのこうた」が残っていて、重さ31キログラムにもなるいのこもち(ゴーリンサン。写真左)に縄をつけ、12、3才から15、6才の子供が「いのこうた」を歌いながら村内をひきまわす行事があった。同島の堺谷三郎(当時80才)さんが歌詞を紹介されている。
     竹の切り株に たまり田の水は
        ヨイ  ヨイ
     すまずにごらず 出ず入らず
       アア エットイ エットイ エットイナ
     いの子もち つかんか
      つきてがなけりゃ
     ついてやる ここのうちの せどにゃ
     ふきがある みょうががある
     あうがめでたい ふきはんじょう 
 <「語りつぎたい讃岐老人の知恵」(昭和59年) 原文のまま>
松島町のおいのこさん  耕地に恵まれず、水が不足がちな島の事情や隣人愛をうつす大変味わいのある特異な歌詞である。
  高松市松島町のおいのこさんは、「いのこ石」も「いのこうた」も特異なものだった。いのこ石は、石に代えワラに芯を入れたたらいほどの大きさにまるめ、真中に御幣を立て蜜柑などを飾り、まわりに上げ下げ用のタコ足のような縄が数本つけてあった。直径が180センチメートルにもなる巨大ないのこ石(写真左。「松島の風土記」(平成8年)から引用)もあった。明治の初年くらいまではこのような巨大ないのこ石が用いられていたようである。
 歌詞の方も特異である。「松島の風土記」で次の通り正調・亥の子音頭が紹介されている。正調と断ってあり、その他の歌詞も存在していた。  
      いのこさんがい来年おいで 
        そらじゃ 来年おいで
      来たら上げましよよおつこり 
        御所柿を おもしろや
      やのよーたんじゃ エンヤラサ
                 サイワラサー
      ここは道の真中じゃ 
        持ちゃげて降ろせ 降ろせ
      御世はめでた世の若の松さまよ 
        そらわかの 松さまよー
      枝も栄える いやくもり
        葉も繁る おもしろや
      好いた水仙 好かれた柳
        こころ石竹 エー送り日は
        紅葉 おもしろや  (正調 亥の子音頭)                   <「松島の風土記」(平成8年) 原文のまま>
  松島の風土記によると、「イーノコイノコ イノコの晩に 祝わんものは畜生め 蛇生め 角が生えた 子生め」のような歌詞も存在していたのである。ほぼ同様の歌詞が愛媛県松山市など中予、広島、鳥取、三重などの各県でみられる。愛媛県の朝倉村(現今治市)では、上記高松市のいのこうたとうたいだし、数え歌部分の歌詞はほぼ同じで、歌い終わり部分が「・・・ごうりん ごうりん ごうりんさんの晩にゃ 餅ついて祝え 祝わん者は鬼じゃも じゃもけ」(「朝倉とその周辺の伝説と民謡」(昭和57年))であった。広島県の宮島では、「亥の子 亥の子 亥の子餅ついて 親生め 子生め 祝わんものは 鬼生め 蛇生め 角生えた子生め 亥の子 亥の子 亥の子餅ついて 繁昌せい 繁昌せい」のいのこうたが存在していた。これらのいのこうたは歌詞が呪詛的であるが、いのこをともに祝うという共同体の共通認識を反映したものであろう。主役は子供であるので、大人に対する子供のレジスタンスの意味あいもあったかも知れない。
 「いのこうた」は、俗語の歌詞でリズムも抑揚も乏しく単調である。しかし、私たちは「いのこうた」に生き生きとしたぬくもりを感じてきた。地域に生きる喜びがあった。いのこなどの祭りを通じて、己が地域の人々とともに在るという確かな実在感を得て皆が親子、兄弟のようなものだった。高尚な音楽だけが芸術ではない。ゴーリンサンをつき無心に歌う童らの姿に、老いゆく者は伸びゆく者に社会の将来を託する安堵をも実感する民族歌であった。−平成16年−