三原城址−三原市本町−
トーマス小崎
JR三原駅の真ん中に、小早川隆景(毛利元就の三男)が築いた三原城址がある。天守閣の跡など城の北半分の遺構が濠とともに現存する。
 海浜部の埋め立てや駅周辺の整備によって三原城の全貌を知ることはできない。遺構の一部は三原駅の高架下にあり、石垣の基部に歩道が抜かれる有様である。
 繰り返し行なわれた城郭の破壊を批判することは簡単である。しかし、私たちは過去の先人の遺産がほとんど金銭的な価値をうまないことも知っている。当地は平地が少なく、急峻な岩山が背後に迫り、前面は瀬戸内海である。海浜の浮城を破壊しなければ市民の利便が保障できなかったのであろう。
 明治26年、山陽鉄道(国鉄。JRの前身)の開設によって城壁は壊れ、その後次々と駅周辺の整備が進められたのである。
 私たちは、三原城址に寄せる市民の愛着を感じなければならない。隆景の偉業を思わねばならない。大宰府天満宮宗像大社筥崎宮など日本を代表する鎮西の諸社の修築や仏通寺など県下の寺社への貢献など隆景の日本文化の 維持、発展に果たした功績は計り知れないものがある。
 三原はまた東西交通の要路山陽路にあって歴史の悲劇をやどすこともあった。慶長2(1597)年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧によって長崎の西坂の丘で処刑されたトーマス小崎(写真左下。三原城址の堀端に建つ)が京都から護送される途中、三原城に留め置かれて伊勢の母へ別れの手紙をしたためたのもこの城だった。若干14歳の少年は、すべての人に大いなる慈悲がかけられるよう、願ったという。小崎はカトリック教徒の日本26聖人の一人にかぞえられ、手紙の訳がローマに保管されているという。
 三原駅周辺を巡ると三原城城址の残欠が残りよく維持管理され、やっさ踊りなど三原の伝統も受け継がれている。三原を旅し、西町の大善寺や本町の宗光寺などを訪ね小早川時代を思うのもよいだろう。−平成18年4月− 
大石りくの墓(国泰寺)−広島市西区己斐上−
 広島市郊外に国泰寺という禅寺がある。大茶臼山の西麓に在って別称殿様でらの名がある大刹である。もともと市内の繁華街に所在したが、30年ほど前に当地に移転している。開山は不動院を復興した安国寺恵瓊でもとからあった雲仙寺を改め安国寺とした。福島正則が入封後は、豊臣秀吉の法号をとって国泰寺と改称された。曹洞宗。
 この寺に、赤穂浪士・大石良雄の妻りく(理玖)の墓が三男大三郎の墓とならんであり、傍らに大正年間に建立された赤穂義士追遠塔が建っている。塔石は移転前の愛宕池の石という。旧境内の愛宕池の傍らに白神社があり古くはこのあたりが広島の海岸線だった。
 さて、大石良雄は播州赤穂藩の家老を務めた人。藩主浅野内匠頭長矩の仇吉良上野介義央の邸宅に討ち入り、藩主の無念を晴らした赤穂浪士の棟梁。毎年、年末になると映画やテレビで馴染みの人。日本人の心を捉えてはなさない人物のひとりであろう。
 事件後、大三郎は浅野の本家である広島藩士となり、1500石の知行を得た。りくは大三郎とともに広島入りし、国泰寺住職大震師につき法尼となって仏門に精進し、元文元年(1736年)没。享年68歳。−平成18年9月−