九州絶佳選
福岡
太宰府天満宮
東風吹かばにほひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘るな  <拾遺和歌集>
 右大臣菅原道真が藤原時平の讒言によって大宰府に左遷されたのは昌泰4(901)年のことだった。大宰府都府楼近くの配所(榎寺)でふさぎ込む日々が続き、903年(延喜3年)、道真公は失意のうちに薨去。享年59才。
 門人味酒安行うまざけのやすゆきが道真公の遺体を牛車に載せ配所から2キロほど行くと牛車が突然動かなくなりその地に埋葬された。現在の太宰府天満宮(写真右)の神殿が建つところである。
 道真公の左遷後、旱天、大地震、火災などの厄災や道真公を中傷した時平一門の不幸が相次ぎ、道真公の神罰によるものと信じられるようになった。
 道真公没後10年目にして、朝廷は道真を右大臣に復位させ、勅命により大宰府に祠廟の建立を命じるのだった。埋葬地の上に神殿が建つ稀有な社は、全国天満宮の総本社である。
 太宰府神殿は天正年間に火災により焼失したが、1591年(天正19年)、小早川隆景が豊臣秀吉の命により再建している。本殿は桧皮葺5軒社流造り。本殿右手に京都から飛んできたという飛梅(写真上)がある。実際は、白太天という者が京都の菅原家の梅を根分けして大宰府に運んできたものという。境内の心字池には太鼓橋が架かり、橋の中ほどに志賀社がある。
  太宰府天満宮は、学業の神様として信仰が厚く、全国から訪れる参拝客が絶えないところである。西鉄太宰府駅から徒歩5分ほどのところに社がある。
太宰府参道

  道真公を祭る全国の天満宮の数は多い。道真公が42歳のとき4年間、国司を務めた讃岐(香川県)や道真公の西遷の道筋にあたる瀬戸内海沿岸には天満宮、天神社と名のつく神社は数え切れないほどある。
 菅原家は代々儒学の家で道真公の祖父、父ともに文章博士。‘菅家廊下’という今日の私学校を経営する学者の家系だった。道真公自身、官途についたのであるが若くして文章博士となり、類聚国史の撰修や三大実録の編修を行ない、自作の漢詩514編を収めた菅家文章や菅家後集を編むなど文人としての功績も著しかった。左遷に遭い大宰府の配所(写真右)で読んだ38首の漢詩中、「去年の今夜清涼に持す。・・・」ではじまる七言絶句の「九月十日」はよく知られた漢詩。死後、これほど崇敬を得ている道真公も政治家としてのさいごは不遇であった。

 道真公が55歳のとき右大臣兼近衛大将になると、藤原時平は左大臣に昇進。二頭体制で政務が執られた。時平は29歳の皇胤皇族で藤原一門の将来を背負った人物。朝廷内で幅を利かせた藤原一門の動きに身の危険を察知したのか、道真公はしばしば辞表を提出したが受け入れられることはなかった。道真公の遣唐使船の大使任命の一件についても藤原一門の道真公排除の画策のうちだったろう。そのうち宇多天皇は醍醐天皇に譲位。
 昌泰4(901)年正月、道真公は突然、太宰権帥に左遷される。時平と藤原氏が、道真は醍醐天皇を廃し、天皇の弟、斉世親王を立てようとしていると上奏したのである。斉世親王の夫人は道真公の娘。道真公は直ちに大宰府に左遷され、僅か2年のうちに大宰府の配所で薨去。なんとも痛ましい事態となった。
 道真公の薨去の後、京の都では凶事が相次いだ。道真公讒言の首謀者時平(39歳)、保明親王(21歳。皇太子。母は時平の妹穏子)、慶頼王(5歳。母は時平の娘)、醍醐天皇(46歳)が亡くなり、大納言藤原清貴は清涼殿に落ちた
雷に打たれ即死するという事態に及び、加えて旱害、疫病、洪水など天変地異が民衆を襲い、それらの凶事は道真公の霊のなすところといううわさが広まった。それは科学の未発達な時代、凶事は政変などで亡くなった人の霊や仕業によっておこるという御霊信仰によるものだったろう。
 朝廷は道真公の祠廟の建立を命じるなど慰霊に尽くすのであるが、時代の経過とともに道真公は学問、書道、諸芸能、雨乞い、鎮火、雷除け、悪疫退散、安産祈願の神などとして崇められるようになる。
 道真公が雷除けの神様と崇められるのは、薨去後その霊が雷となって京都へ帰り藤原時平の頭上に落ち殺したと信じられたことによるもの。各地の天満宮でよく見かける横になった牛の像は、道真公の遺骸を曳いた牛にちなんだものといわれる。願掛けする人の患部に相当する牛の部位を撫でると快癒に効果があるという信仰を生んでいる。毎年、1月7日の夜に行なわれる鷽替え神事は、道真公が虚言によって大宰府に流されたことから、嘘をまことにかえる神事がおこなわれたことに由来するという。鷽かえ神事がはじまると、「かえましょ、かえましょ」と境内の神事場は木鷽をもった老若男女で溢れるのであるが、群衆の中に金製の鷽をもった神官が10名余り紛れ込んでいて、うまく金鷽と交換できれば幸運に
木鷽
天満宮奉献の鷽
めぐりあえるとあってたいそうな賑わいである。鷽かえ神事は、全国の天神社で行われるが、総じて西日本で盛んなようである。道真公にまつわり日本各地に残る種々の信仰は汲めど尽きることはない。
 日本史は、学者出身の政治家の成功例をとどめていない。新井白石も同様であろう。しかし、その生涯を通じて両者が歩んだ道は、やっぱり正道として私たちの日常生活に規範を与えつづけている。死後においてもなお、これほど影響力を与えつづける日本人はそれほど多くはない。
 大宰府の都府楼の南に道真公の配所・榎寺跡(写真右上)がある。榎寺は、道真公と幼児二人と門人味酒安行の4人が暮らしたところ。今は榎社になっていて、境内の片隅に「去年の今夜清涼に持す 愁思の詩篇独り断腸・・・」の詩碑が立っている。
 いつもは静かな佇まいをみせる榎社も太宰府天満宮の神幸祭が行なわれる9月の大祭には行宮となる。例年、9月22日、本宮から下がられた神輿は、榎社の御旅所で1泊され、翌23日に本宮に上られる。境内は華やかなものである。牛車の行列など一大時代絵巻が夜遅くまで繰りひろげられ、夜店が出て賑わう。
 鷽替え・鬼すべ神事(1月)、曲水の宴(3月)、護摩たき(5月)、夏越し祭(7月)、神幸祭(9月)など大宰府天満宮の行事は多い。−平成17年−
神幸祭(榎社境内の風景)
太宰府の梅花風景(平成18年3月5日、曲水の宴行列等)