赤名峠−三次市布野町−
 人麿の ことをおもいて 眠られず 赤名越えつヽ 行きしおもほゆ   <斉藤茂吉>
赤名峠 備後と出雲の国境に赤名峠(写真)という険しい峠がある。今は国道54号線が整備され、旧道の赤名峠を越える車はなくなった。
 峠の旧道は標高680メートル、2キロメートルほどの寂しい山道にしかすぎない。藩政期には大森銀山の銀銅がこの峠を越えて備後に運ばれた。人々は、この道を旧石見銀山街道(又は旧出雲街道)とよぶ。
 50年ほど前、山代巴原作の「荷車の歌」という映画があった。荷車を曳いて峠近くから三次の町まで、炭を運搬するセキという女性の物語。小中学校などで巡回上映されたので記憶のある方もおられるだろう。布野から峠までだらだらと数キロもつづく坂道はつらいものだ。この坂を舞台に映画は展開する。黙々と忍耐強く生きる女性を描いたよい作品だった。 
 8世紀初頭、石見で没した柿本人麿も幾たびかこの峠を越え上洛したことであろう。‘人麿のことをおもいて眠られず赤名越えつヽ行きしおもほゆ ’と詠った茂吉。持統・文武両天皇に仕え、石見の地方官で没したと考えられる柿本人麿。大伴家持が「山柿の門にいたらず」と憧憬した歌聖である。人麿が歩いた道をゆく茂吉の感激もひとしおのものがあったのだろう。
 人麿歌集や万葉集に雄渾、荘重な歌を残して宮廷歌人の名をほしいままにした人麿。しかし、その出生や没年、また晩年、突如として都を去り石見に現れる人麿の周辺情報は余りに乏しく謎に満ち、官位や詠歌の故地についても諸説紛々たるものがある。
 人麿が権力抗争の巷で憂き目を味わったことは想像に難くないが、その死は余りに寂しい。穏やかに詠いだし次第に荘厳さをおび、感情にまかせて高揚、激越してゆくあの格調の高い長歌の調べをその末路から思うことはとうていできない。
鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ    <万葉集 柿本人麿>
 
 万葉集の詞書に、臨死らんとする時、自ら傷みて作る歌とあり、人麿は石見の鴨山で没した。鴨山の所在地について諸説あるが、茂吉は今の邑智町湯抱温泉近くの鴨山に比定している。石見の国庁を発ち江の川沿いの道を遡り、湯抱あたりで江の川から離れ、その東部の山間に刻まれた出雲街道をゆき、赤名峠に向かったのだろう。湯抱は人麿がしばしば往来したであろう上洛の道筋近くにあり、唐突な説とは思われない。わたしはより積極的に、人麿は朝集使(四度の使のひとつ)として上洛の道すがら突如、死の病に襲われ鴨山で没したのではないかと思ってもみる。
 地元には、人麿は万寿3(1026)年の地震によって海没した高津沖(益田市)の鴨山(鴨島)で没したとする伝承がある。同市の高津川左岸の河口部近くに鴨山があり、柿本神社(写真右下)がある。全国の柿本神社の元社である。地元では人麿様と崇められ、境内に人麿像がある(写真右下)。
 万葉集は、人麿の死に、「薨」や「卒」ではなく「死」の字を当てている。人麿はたぶん六位ほどの官位であって、朝集使(目以上の者が任命され た)などとしてしばしば赤名峠を越え上洛したものと思われる。石見から中国山地を越え、安芸から山陽道或いは瀬戸内海の船便を利用して上洛する経路も存在したであろう。安芸の阿品か、或いは阿品から厳島をも廻った後、船便で上洛することもあったであろう。人麿影供に掲げられる‘ほのぼのとあかしの浦の朝霧にしまがくれゆく舟をしぞ思ふ〈古今和歌集〉’と詠じた人麿の歌はひょ
柿本神社本社
人麿像(柿本神社)
っとして安芸で詠んだ歌ではないかと思ってもみる。
 朝集使は雑政と考選の報告に上洛したが、そのほか課役を負担する者の台帳の申送(大帳使)、国郡に保管してある租稲(正税)の収支報告(税帳使)、調庸の輸送(調使)のため上洛した。それらを四度の使といったが、このほか臨時に上洛する機会もあったから、人麿もしばしば国庁と都を往来したことであろう。
 石見から都の至る道順ははっきりしない。国庁の官人は赤名峠を越え、備後の三次を経て長井浦(尾道)から船便を利用したか山陽道にでて、畿内に向かったのだろう。しかし、不意に襲った病に死を自覚した人麿は、今生の別れにと妻依羅娘子よさみのおとめに思いを託したのである。
 赤名峠にシシウド(写真上)の花が咲き、パチパチと線香花火のように峠を照らしている。 −平成18年9月−

柿本人麿−都野津あたりのこと−
石見のや 高角山の 木のより わが振る袖を 妹見つらむか    <万葉集 柿本人麿> 
江の川から鳥星山を望む
江の川から鳥星山を望む
  柿本人麿が妻と別れて石見国から上洛するときの歌。妻は依羅娘子よさみのおとめの伝承がある。角の里(今の島根県江津市都野津)の人といわれ、同所に明治年間に建てられた柿本人麿神社(写真下)がある。
 人麿は、石見の国府から唐鐘、波子の海岸線を北東に進み、妻の在所角の里を過ぎ、高角山(今の鳥星山。標高470b)の山麓を通り江の川に出て、川沿いの道を辿り、赤名峠に向かったのであろう。今日、江の川沿いに通る国道261号線を遡ると、西方にひと際高く聳える鳥星山をのぞむことができる。
 標記の「石見のや・・・」の歌の前に、長歌がおかれ「・・・露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈毎に 万たび かへりみすれど いや遠に 里はさかりぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思いしなえて 偲ふらむ 妹が門見む なびけけこの山」と詠う。歌は重畳をなす山陰に、次第しだいに姿が見えなくなる。高角柿本人麿神社山山麓(鳥星山、写真上)の角の里に住む依羅娘子への想いを長歌の末尾で・・・なびけけこの山・・・と爆発させ、反歌で・・・わが振る袖を妹見つらむか・・・と詠じ、しみじみとした別れを詠う。この歌は江の川の右岸沿いの国道を赤名峠に向けて行くと実感できる。依羅娘子を都に残し単身、岩見に赴任したとする説がある。しかし人麿は、高角山を背にして‘わが振る袖を妹見つらむか’とうたっている。妻との別れに妻が住む都と逆方向に袖を振るだろうか。さらに妻が都に住んでいるのであれば、人麿歌は上京の途上にあり、別れの歌を詠うはずもないだろう。地元に伝承される通り、依羅娘子は角の里の人と考える方が自然であろう。
 石見における鴨山の所在地にも諸説あって定まらない。人麿の官位すら不明である。官位がはっきりすれば人麿歌の紛糾も多少、穏やかになるところもあるだろう。茂吉が現地を5度訪れ、「鴨山考」で結論付けた湯抱が鴨山と思いたい。−平成18年9月−