奈良
法隆寺の五重塔−生駒郡斑鳩町法隆寺山内−
法隆寺 五重塔 法隆寺は生駒郡斑鳩町に所在する聖徳宗総本山。法隆学問寺ともいわれ、聖徳太子縁の斑鳩宮の傍に建てられた。
 斑鳩が群れを成し日本に飛来するように、当代の顕学は推古女帝の摂政として、大陸から流入する文化を咀嚼しつつ、わが国の歴史を切り開いていったのである。
 聖徳太子薨去の20年後、蘇我入鹿によって斑鳩宮は兵火にかかり、その子孫は滅亡した。しかし、その約100年後、行信僧都の発願によりなった上宮王院本堂が夢殿である。八角円堂、単層本瓦葺である。太子入寂の地点に建てられたこの円堂に魅かれ、藤原時代から白布に包まれ秘仏であった本尊の公開を迫ったのがフェノロサだった。この米国人によって夢殿本尊救世観音立像が広く知られるようになり、今日春秋2回、一般公開されている。
 法隆寺の広大な寺域中、上宮王院を東院、その西300メートルのところにある西院が世にいう法隆寺である。中央に金堂、五重塔が相並んで建ち、背後に大講堂、正面に中門が控え、大講堂の左右前面に鐘楼堂、大経蔵が相対して建ち、廻廊が廻る。南面には中門の前方に南大門を構え、南大門前に松の馬場(松並木)が延びる。金堂、五重塔、中門、廻廊は寺創建時の飛鳥時代のものといわれる。
 五重塔は高さ32メートル。現存する世界最古の木造建築物である。五重塔下の裳階は鎌倉時代の増築という。この裳階をもって塔の美観を損ねるという見方もあるが、塔婆は上昇性の軽快感のみでなく中国の大雁塔に見る下降性が醸す荘厳さも尊重されなければならない。仏像に限らず塔婆においてもその本質とするところは仏陀への回帰であって、米国人の美の感覚とはだいぶ違うところにある。
 塔の相輪部や心柱の頂上に仏舎利が格納された例外はあるが、大部分の塔は心柱の下部に仏舎利を埋納している。法隆寺の五重塔においては、心柱下の礎石に仏舎利が納められ、その格納の様式は銅版で蓋をした礎石中のくぼみに鏡と銅製容器が納められ、容器中に瑠璃、瑪瑙の七宝が盛られ、又その中に銀の容器、さらに又その中に金の容器があり、6粒の仏舎利が埋蔵されている。塔はすなわち仏陀の墳墓をあらわす塔婆である。そうすると、仏教建築において、石を基本部材としたインドや中国の塔とも異なる木造の塔婆を編み出した日本においても、鎌倉のころ裳階の附置によって塔の下降性が強調され、塔の本質への回帰が指向されたのだろう。金堂の裳階も五重塔のそれと同時代のものであるが、こちらの方は五重塔の下降性とのバランスが考慮されたのだろうか。
 それにしても、仏教伝来後、短時日にわが国固有の木造塔をあみだした先人の業績は奇跡に等しい。たぶん推古4年に創建されたわが国最初の法興寺など国家や氏族が建立した寺院伽藍中に塔が存在したのだろう。その研鑽の中から法隆寺の五重塔が生まれたと考えなければ、とうてい法隆寺の塔姿を理解することができない。それほど完成した姿して斑鳩の天を衝いている。 

南大門 夢殿
南大門 夢殿

参考 : 法隆寺の五重塔 法起寺の塔 法輪寺の塔 百済寺の塔 海住山寺の塔 瑠璃光寺五重塔  天女の塔(薬師寺)