京都
安積親王残影−京都府相楽郡和束町−
ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ児が 宿に今夜は 明かして行かむ
我が大君 天知らさむと 思はねば おほにそ見みける 和束わづかそま山
              <万葉集 大伴家持>
 恭仁京の左少弁藤原八束の家に招かれた安積親王。近侍する内舎人大伴家持もいた。安積親王は聖武天皇の第2子。母は夫人県犬養広刀自である。光明皇后を母とした第1子基親王は生後まもなく薨じ、安積親王は将来を嘱望された皇子だった。このとき、親王16歳、八束29歳、家持28歳ころかと思われる。
 八束邸に集まった3人は、建設が進む新都恭仁京に降る雨を感じながら夜更けまで狩のことなど語りあったことであろう。「ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ児が 宿に今夜は 明かして行かむ」と詠った家持だった。
 その5年前、基親王薨去後、立太子したのは安積親王ではなく光明皇后の娘阿倍内親王だった。光明皇后は藤原不比等の娘・光明子である。臣下の立后もその娘・阿倍内親王の立太子も異例中の異例の事態だった。藤原氏の専制に倦んでいた諸氏にやがては安積親王にと期待するところもあったであろう。それはまた、八束邸に集まった3人の若き貴公子らのおもいとも異なるところはなかったかもしれない。
 しかし、翌天平16(744)年1月、難波宮に向かった安積親王は桜井頓宮(今の東大阪市六万寺町付近)で体調を崩し、恭仁京に引き返し、2日後に薨去。死因は脚気という説がある。その死があまりに急だと人は思考力を失うものだ。茫然自失してその死に疑問を感じることすらなかったかもしれない。
 家持が安積親王に奉った長歌と反歌がそれぞれ2首、万葉集に採られている。揺れる心を必死に抑えつつ、「・・・かけまくも あやに恐し 我が大君 皇子の命 ・・・」「我が大君 天知らさむと 思はねば おほにそ見みける 和束わづかそま山」」と詠った。
 安積親王の墓は、恭仁京にほど近い木津川の支流・和束川のほとりにある。和束はお茶の名産地としてきこえるところだ。茶畑に囲まれた小高い丘陵上の墓所に皇子は眠っている(写真上)。晩秋の稲田に風が吹き、しぐれ模様。非業の皇子安積親王の涙雨であろうか。−平成21.11.20−

恭仁京址遠望(写真中央)
藤原一族の陰謀-八束の場合-
 天平文化が花開き、平城京は東アジア最大の仏都にふさわしい偉観を呈した。しかし、華やかに見える文化も一皮剥ぐと人が争い、悩み苦しみ、もがく生き地獄が見え隠れする。 日本史上、天平時代ほど氏族間闘争が激化し、皇族を巻き込んで骨肉相食む暗鬱とした時代はなかったのではないだろうか。
 安積親王の薨去をめぐり、死因について諸説ある。藤原仲麻呂の暗殺説も払拭できない。
 親王の薨去より7年前、天平9(737)年、朝廷の要職についていた藤原不比等の男子4人(武智麻呂、房前、麻呂、宇合)が疫死(天然痘)し、替わって橘諸兄が太政官に就き政権を担い、僧玄ムや吉備真備が重用されるようになると藤原氏の権勢は急速に衰えはじめた。
 藤原氏には仲麻呂(武智麻呂の二子)、八束(房前の三子)とその兄永手、広嗣(宇合の一子)がいたが仲麻呂31歳、八束、広嗣は30歳に手が届かず官位が低く、藤原氏の復権は容易なことではないようにみえた。
 藤原のような新興の氏族は、大伴氏に代表される伴造系氏族のような家門がない。したがって、常に一族の樹冠を広げ、かつ天皇家の外戚となって発言権を維持し続ける策略と、イレギューラーな政局に対処できる武力と情報の収集力が不可欠である。古代、中世における名門貴族や領主などに至っても大体、そのような羅針盤によって舵取りし、権勢を維持することが一般的な傾向であっただろう。さらに私たちは、歴史の裏側で女性が歴史をつくり、また権勢の維持や氏族の復権にも力を発揮したことを知っている。
 安積親王の暗殺説が生じる背景に、女官として6代の天皇に仕えた県犬養三千代の影を否定できない。首王子(聖武天皇)の即位、不比等の娘安宿媛(光明子。生母三千代)の入内(霊亀2(716)年)、聖武天皇の同夫人光明子の立后(天平1(729)年)などに三千代が見え隠れしないか。
 天平5(733)年、三千代は薨去したが、藤原家4人の祖が疫死した翌年、 聖武天皇と光明皇后の子阿倍内親王が立太子(天平10(738)年)した。県犬養三千代の薨去から4年。三千代が願った阿倍内親王の立太子であったかもしれない。
 県犬養三千代はその姓から明らかなように、祖先が三宅の米倉などの警備に当たった伴造系氏族と推される。父は県犬養東人で官位は従四位下、六国史に残るほどの記録はない。
 大和王権時代から続く采女の貢進制は、奈良時代に至っても止まなかった。15歳以上の郡小領以上の姉妹・娘の中から形容端正な者が後宮におくられ、令制に基づき女官として採用された。内命婦(五位以上)に昇進すると、位田は男子の三分の二、食封は男子の二分の一が給された。三千代の生年や女官の採用年は不明。令制による出仕の最少年齢から逆算して、生年を天智4(665)年とする説がある。
 三千代は天武朝から持統、文武、元明、元正、聖武朝まで6代にわたって出仕し、軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めたとする説もある。元明天皇が即位すると橘宿禰の姓が授けられ、養老元(717)年のころ従四位上にあった三千代は従三位に昇任している。続日本紀に官職の記録はみえないが、尚侍(内侍司の長官)などを歴任し、宮廷内の威勢、発言力は太政大臣不比等などを凌ぐものがあっただろう。
 私生活では皇族の美努王に嫁いで橘諸兄、牟漏女王(八束の母)を産んだ。美努王と離別後、経緯はわからないが不比等と再婚。不比等の昇進に尽力し、不比等の間にもうけた安宿媛(光明子)は光明皇后となり、その娘の阿倍内親王(三千代の孫)は孝謙天皇になった。疫病禍後に政権を執った橘諸兄と天皇の外戚たる藤原氏との架橋であったことはおして知るべしである。不比等と再婚したように基本的には藤原氏に近い人とみられるが県犬養一族から離れることもなかった。
 不比等と再婚した三千代は、さまざまの特例を日本史に刻み、藤原一族繁栄を不動のものとした。聖武天皇の一子基親王が薨去すると第二子に安積親王(母は県犬養広刀自)が控えていたからその延長線上に阿倍内親王の立太子構想を熱望していたかもしれない。皇太子不在のまま時日は経過していた。苦悩する三千代がいたことは圧して知るべしであろう。
 八束もまた私生活では三千代と似たところがあって橘諸兄と藤原氏つなぐ格好の人物であった。父は藤原北家の房前、母は牟漏女王で三千代を祖母、諸兄を伯父とする。不比等−房前と続く藤原氏の直系でありながら母方はいわば藤原氏の対抗勢力であった。おおらかで目配りの効く公正無私とされるの八束の人柄は、彼の血筋から生じるバランス感覚が八束をしてそうさせたに違いない。家持に接近しまた理不尽な社会を詠じてみせた山上憶良が重篤な事態に陥ると、使者をやって見舞いの心遣いができる人だった。だからこそ八束は躊躇なく自邸に安積親王を招き、家持を加え一夜を語り明かすこともできたのだろう。八束直系の家系はその後も藤原家の主流であり続けあの道長も八束の後裔である。
 多感な家持青年もまた、政敵を憎んでも八束を憎んではいなかっただろう。40歳を過ぎ、歌を詠まなくなり、幾たびもテロを疑われそのたびに都から遠ざけられた家持であった。そこに武門にあり反藤原の一角にありながら、極刑をまぬがれた家持の生き様も見え隠れする。
 さて、八束が安積親王、家持と会したとき、八束の役職は弁官。従六位か従五位下とみられるが、今にいう内閣官房の一員であった。その1年後、天平16(744)年閏1月、安積親王は薨去した。三千代の孫、皇太子阿倍内親王(八束の従妹)は孝謙天皇となった。女性天皇の誕生である。それは三千代の宿願であったとしても不思議ではない。
 恭仁京址に立つと近くを木津川が悠々と流れ、川面に八束邸に会した安積親王とその警備を役目とする内舎人家持の姿が浮かんでは消える。八束は親王の心をつかみ、親王が吐露した情報は仲麻呂ら一族と共有していたことだろう。平生、にこやかな笑顔をうかべ鷹揚に振舞う八束の幻影を見えはしないか。
 藤原仲麻呂(恵美押勝)は広嗣の乱(天平15(743)年)の後、政界に進出した新鋭。疫病禍後の一族のエースであった。安積親王暗殺の疑念が向けられる人物である。乱後に朝廷の最高機関たる参議メンバーとなり、6年後の天平勝宝1 (749) 年には大納言。権勢は諸兄を凌ぐまでに至った。しかし、孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡が立ちはだかる。太政大臣を歴任し位人身を極めたが、道鏡の排除を求め反乱を起こし失敗し、刑死。結局、玄肪の排除を求め反乱を起こした広嗣同様に抑制が効かない性急な性格が禍したのだろう。  恭仁京で会した3人の背後に仲麻呂の姿が浮かぶ。
 744(天平16)年1月、安積親王薨去。その1ヵ月後、難波宮に移った聖武天皇。翌745(天平17)年1月、紫香楽が新京とされ、恭仁京はいとも簡単に捨てられた。
 安積親王の薨去を振り返って詰まるところこの一件は、仲麻呂は実行犯、八束は共犯の疑いを払拭できない。その流れをつくった人物が三千代といえそうである。
 安積親王薨去の一件につき家持の関与はどうであったのか、気になるところだ。結論から言うと、家持は当然「シロ」というべきであろう。
 家持は武をもって天皇に仕えた伴造大伴の生き様を自らの立ち位置にして生きた人物ではなかったか。大伴という家門の長であった家持は延暦4(785)年8月に薨去するまで鎌足を祖とする新興貴族藤原氏の羨望であり、ねたみや監視の対象とされた。橘奈良麻呂の乱(天平宝字元(757)年)、藤原仲麻呂暗殺計画(天平宝字7(763年))など事件への関与を疑われ、その都度何度も地方勤務(因幡守、薩摩守)を命ぜられるなど辛酸をなめた家持だった。薨去後も家持は同年におきた藤原種継暗殺事件の首謀者とされた。埋葬が許可されず、除名(刑)によって官籍も消されてしまった。生きた証すら失った家持。除名は極刑中の極刑であろう。因幡守に左遷となった当時、齢40歳で和歌1首を詠み、以来20年余、薨去するまで歌を読まなかった家持。
 不思議なことに、家持は藤原種継暗殺事件発覚前に自径した。事件後、家宅捜索を受け、その際邸宅から万葉集が発見されたとされる。そのためか万葉集の編者は家持とする説が定着する一因となった。家持の薨去は藤原仲麻呂の暗殺、万葉集の編者は仲麻呂を中心にした藤原一族ではなかったか、あえて疑問を呈したい。
 藤原氏がほしかったものは果たして政権と家門の繁栄だけだっただろうか。文化と教養の証こそ藤原氏が熱望した証文ではなかったか。そこにどうも万葉集は藤原氏によって編まれたのではないか、疑念が生じるのである。八束、仲麻呂の詠歌がやけに目立ち、三千代の歌も1首採られている。
 その薨去から20年後、家持にくだされた除名の刑が取り消されている。万葉集はその間に、仲麻呂ら藤原一族によって密かに編纂されたと僕はみるのだが、どうだか。−平成21.11.25−
県犬養三千代の歌の疑問
 万葉集に「太政大臣藤原家之縣犬養命婦奉天皇歌1首」と題し三千代の歌が載る。‘天雲を ほろにふみあたし 鳴神も きょうにまさりて かしこけめやも’と。歌意は、「天子様の御前に召されこれ以上に恐れ多いことがございましょうか、ご威光の恐れ多さは比べる何物もございません。」(巻第19。4235)とよめる。上句の雷の形容に三千代の天皇を見る目がうかがわれる。‘大君は天雲の雷の上に庵りする’のではなく、天雲をほろにふみあたす鳴神よりも今日の天子様は物凄いと三千代は歌う。
 その天子様は果たして誰だったのか。興味は尽きないが定説がない。三千代が天子様に召されてその威光を身にしみて感じる場面はやっぱり朝儀でなかったか。内命婦の朝儀出席の資格は従五位以上であるが、三千代の女官たる命婦歴はながく元明、元正、聖武のいずれの天皇かなお不明である。三千代は朝儀に常日ごろ召され、おしなべて天皇の威光を目にしていたわけで、日々感じていた気持ちを詠んだ歌と解すれば天皇を特定する必要はない。
 歌の後書きに「右一首、伝誦掾久米朝臣広縄也」とあり、この歌は越中介内蔵忌寸縄麻呂の館で宴楽したおり広縄が伝誦していた歌を採用したものらしい。
 万葉集中、三千代の歌はこの一首のみであり、広縄の伝誦歌と断っているところを察するとこの歌は三千代の作歌ではなかったのかもしれない。家持の死後、藤原氏によって万葉集が再編される際、挿入されたものとも考えられるがどうであろうか。−平成21.11.25−