京都
夜久野のお地蔵さん−福知山市夜久野町平野−
平野の地蔵菩薩 丹波と但馬の国境に夜久野町(福知山市)という町がある。 そこは町の西部に当たり高原をなすところ。キャベツ、ネギなどの高原野菜や果樹の栽培で聞こえたところだ。国道9号線が町を貫通し、峠を降ると和田山(朝来市)に至る。和田山は5世紀中葉に造営された王墓級の古墳が散在し、但馬王国ともいうべき威容を今日に留めている。
 丹波高原の北側はV字谷をなす牧川(由良川支流)の段丘上に田畑が拓け人々の日常生活が営まれ、地区内の幹線道は西国三十三所巡りの巡礼道(27番圓教寺から28番成相寺に続く)に重なっている。そういう夜久野の歴史的環境や厳しい自然環境が当地に四国88所ミニ霊場をつくりだし、さらに人々を地蔵信仰へいざなう素地となったことであろう。
 夜久野の路傍に佇み或いは祠やお堂に祀られる石仏は数えればきりがない。できばえは良いものが多い。庚申塔(青面金剛)を含む観音・地蔵菩薩の造像活動が石工の技術を向上させたゆえであろう。
 夜久野の巡礼道に沿って往くと、旧平野村(夜久野町平野)に水上というバス停の傍らに小さなお堂がある。堂内に向かって左に舟形光背に石造地蔵菩薩立像(写真上)が、右手に庚申塔が祀られている。地蔵菩薩は袈裟を着け、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、立像の左右の端に「保元辛酉年」、「施主村中…女講中」の記銘がある。お地蔵さんの立姿は実に美しい。道すがら再々、拝ませていただいている。庚申塔は明治年間の造立。
 地蔵菩薩が造立された保元年(1156〜1159年)は平安時代末期に当たる。しかし保元年間に干支の辛酉(かのととり)に当たる年は存在しないのでお地蔵さんの造立年に疑問が残る。「保元」の2文字を含む年号でありかつ辛酉年にある和暦を調べると「寛保元年」が「辛酉年」と一致する。造立は西暦1741年となり、将軍徳川吉宗の治世である。僕は、石仏の記銘中「寛」の字が剥落した結果、造立年に錯誤が生じるようになったとみるのであるがどうだろうか?。
 それにしても江戸中期の遠い時代に平野村の女性たちは地蔵講を結成し、信仰の証しとしてかつ巡礼の道しるべとしてお地蔵さんを造立するほどまでに地位が向上していたのだろう。錫杖持つお地蔵さんの右手小指がピント立っているのも女性的で微笑ましい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 西国三十三所巡りは室町期以降に民衆化し、江戸時代中頃にもっとも盛んになる。当地の人々も西国巡礼に触発され老若男女、大いに仏道に精進したことであろう。当地に四国88所ミニ霊場をつくりだしている。さらに仏道への精進が野辺や堂、祠にお地蔵さんを祀る素地となったに違いない。
 地蔵信仰は末法思想と結びつき平安時代後期のころから貴族間で盛んとなり後に、道祖信仰と結びつき民間に浸透し江戸時代に盛期を迎える。お地蔵さんは幼くしてなくなった子供の供養や安産祈願のため今も庶民に親しまれている菩薩である。−平成30年6月−