のうみつに 京都
農家の風景(懸魚の祈り)−綾部市−
 家屋の佇まいは住む人の生業(なりわい)(仕事)を反映しサラリーマン、商店、農家等々…それぞれに特徴がある。また同じ農家でも、造りの違いから蔬菜農家と米農家の違いはなんとなくわかる。
 さらにに見方を変えると入母屋(いりもや)式農家住宅は主棟の木鼻に彫物(「懸魚(げぎょ)」という)を下げているものと、下げていないものがある。意味もなく懸魚を付けた訳でもあるまいが、由来がよく解らない。
 懸魚の形状は、「(かぶら)」、「梅鉢(うめばち)」、「三花(みつはな)」など様々の形がある。さらに懸魚板に六様(ろくよう)ハート型の打ち抜き(猪目重ね)をデザインしたものや、懸魚上部の左右に破風に沿って(ひれ)を設えたものなどがあり、観ていて実に楽しい。懸魚や蕪等の名称は、寺社の拝殿や本殿等に設えられたそれと同じである。
 現存する農家の懸魚は住宅の新改築時に宮大工或いは彫物(彫刻))師(以下、「彫物師」という。)によって製作されまた、その老朽化によって取り替えられたものもある。
 京都の北部に、福知山盆地がある。由良川が綾部市、福知山市を貫流し日本海に流入する。由良川の本・支流の流域に懸魚を設えた農家が数多く分布している。
 丹後、若狭など北近畿一帯の農家に懸魚を下げたものがまったくないといえないまでも、その濃度において丹波特に、何鹿郡(今の綾部市)に勝ところはないであろう。
 綾部の懸魚を衝けた農家は寺社周辺で見かける場合が多く、伝統的な農村景観をかもし、美しいものだ。(写真上) 
 また、懸魚を下げた農家は草ぶき住宅(入母屋造り。現状は草ぶき→トタンぶき。)に限らず桟瓦ぶき住宅においても僅かではあるがみられる。
 綾部市上林地区で2005年に撮影した農家住宅の懸魚。その後、家屋は改築されているが懸魚はそのまま残されている。二重屋根となっていて主棟と下棟の各破風の拝み2か所に、鰭飾りと「三花(主棟)」「蕪(下)」の懸魚を設え、懸魚の上部に六様を配している。
 主棟の懸魚は八津合八幡宮の本殿のそれを、下棟の懸魚は同拝殿のそれと同形の蕪型を用いている。
 屋根の造りが同形の農家住宅の中には、懸魚を上記住宅と上下反対(上が拝殿、下が本殿)に設えているものもみられる。
 懸魚を下げた綾部の農家は特に、@京都府道1号線沿いの上林地区(由良川支流・上林川沿岸。丹波の民家(懸魚)参照)、A同74号線沿いの私市、栗上、位田地区(由良川右岸)、B同494号線沿いの向田、篠田地区(由良川支流・犀川上流の志賀郷内)、C同9号線沿いの福垣、物部地区(由良川右岸及び支流犀川中流域)、D国道27号線沿いの西原地区等々により多く分布している。
 改築によって懸魚を外した農家もあるがまだまだ、懸魚を下げた農家は多い。懸魚の由来を古老に聞くのだがはっきりしないという。 
 寺社の懸魚の淵源について飛鳥時代とする一方、一般的にはそれが現存する鎌倉時代に発生したとする説がある。しかし、平城京東朝集殿を移築した建物が唐招提寺講堂になっていて、軒端にハート形を打ち抜いた懸魚が掛かっている。ハート形は古代エジプトなどで発生し天山パミールを超え日本に伝わった。珍
懸魚の始まり
 建築物の破風の拝みに下げた一種の装飾的な建築彫刻である懸魚。寺院や神社、官衙の建物などに設えられた
 懸魚は木製。風雨にさらされ、やがて朽ち果て、また随時取り替えが可能。したがって、その始まりを探ることが難しく結局、確証と現認が可能な鎌倉時代の懸魚がその始まりとされている。
 平安時代以前の懸魚は想像すらできないのだろうか。遡って奈良時代に鑑真和上が賜った平城京の朝集殿(唐招提寺講堂)に下がる懸魚を私たちはどのように解してよいものか、勝手に設えたとも思われない。さらに飛鳥時代に懸魚は存在したのかどうか。
 奈良の高松塚古墳(飛鳥時代)の壁画絵画などに影響を与えたとみられる高句麗古墳群(北朝鮮平壌付近。世界遺産)中の三萬里第二古墳の壁画に天狗の団扇のような「忍冬文様」が描かれているので懸魚の始まりは飛鳥時代にまで遡る可能性もある。飛鳥時代の懸魚について、天沼俊一氏(1876〜1947年)は、「…懸魚は仏教伝来以来のもので、当初の形はやはり天狗の羽団扇の様な形式のものではなかったらうかと思っている。」(「日本建築小史」(昭和23年刊)と述べられている。達見であろう。
 懸魚は飛鳥時代の「忍冬」、奈良時代の「猪の目」、さらに「三花」とその簡易形の「梅鉢」と遷移し、「蕪」は室町時代以降に下げられるようになったと考えられる。
 猪の目懸魚の「猪の目」についてその原型はハート形。半分に分解すると猪の目になる。天山、パミールを越え奈良の都にもたらされたと思いたい。
しさから懸魚に反映されたと考えれば、発生を8世紀ころとしてもそれを排除する合理的な理由はない。さらに、大陸の古墳文化の影響などを思うとその始まりは6世紀ころにまで遡る可能性もあるだろう(コラム欄参照)。
 農家の懸魚につき私はその由来を知らない。農家と宮大工或いは彫物師との交流が生じかつ、農家がその必要性を感じるまでには相当長い時日を要したと思われる。それは豪農が出現し経済力を蓄えるようになった江戸時代初期以降に普及し始め、先の大戦前後ころまで続いたと考えられる。
 農家が寺社に参詣し自宅に懸魚を設えたいと思っても、宮大工や彫物師とよしみを通わせる何かがなければ実現しない。何鹿(いかるが)郡(綾部市)で何かが起こっていたのだ。
 私は農家と懸魚をつないだ者こそ彫物師・中井権次一統ではなかったかと考える。権次の先祖・中井正清は法隆寺大工の子。法隆寺の棟札(改修時)に「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣中井大和守正清」の銘を残し徳川家所縁の江戸城、日光東照宮等の建造に関わった。江戸時代初期、柏原八幡宮・三重塔再建(1615〜1619年)のため迎えられて以降、柏原(兵庫県丹波市柏原在住。9〜11代は宮津市在住)などに住み、彫物師として約300年余、家系を受け継いでいる。
 江戸時代中期ころから昭和に至るまでに中井権次一統(中井家親族や用人の彫物師)が北近畿一円の寺社に残した彫物は実に多い。
 綾部市内の寺社にも数多くの懸魚、霊獣等の彫物を残している。綾部の京都府道1号線沿道周辺(上林地区)に銘板などによって確認された壱鞍神社、八津合八幡宮(写真下。懸魚参照)、光明寺の彫物のほか、作風からみて権次一統作と思われる彫物が室尾谷神社、葛禮本神社などにある。 同様に府道74号線沿道周辺に大川神社(栗町上村)、御手槻神社(位田)など権次一統作とみられる彫物がある。
八津合八幡宮の懸魚
本殿懸魚(三花)
拝殿懸魚(蕪)
 綾部市内の寺社に権次一統作とみられる彫物を所有するところは多い。
 特筆すべきは、特に綾部においては社寺に止まらず、その周辺に懸魚を掛けた農家が数多く分布することである。
 高津八幡宮(綾部市)の社殿周りは多くの立派な彫刻で埋められているが大坂から彫物師を招聘し彫らせたもの。その壮大な社殿は綾部藩主九鬼氏と福知山藩主有馬氏の財力によって可能となった。しかし一般的に、庶民が京・大坂の彫物師と好を通わせ懸魚などの制作を頼むことはそれほど多くはなかったと考えられる。権次の場合、住地は丹波柏原。綾部と同じ丹波の域内にあって、腕もよく小回りも利く。書状一枚で見積もりに来てくれたはず。作風からみても綾部の多くの寺社の彫刻群はもとより、農家の懸魚ついても権次一統の手になるものが数多くあると私は思う。
 しかし農家はなぜ、棟木の木鼻に懸魚を設えたのであろうか。疑問が残る。
 懸魚のある農家は養蚕家であった場合が多い。綾部の養蚕が知られるようになったのは明治時代以降。綾部は、元漢部。しかし丹後のように正倉院御物や文献資料に漢部が絹を中央に貢納した記録はない。延喜式(10世紀)によると丹波の貢納物として赤絹や白絹(交易雑物)、春羅や綾(調)の名がみえるが、漢部を含む何鹿郡に特定することはできずまた、木簡等による知見も見いだせない。しかし丹後(もうひとつのシルクロード)と丹波は、元々同じ丹波国。明治以前に、綾部で養蚕が行われていなかったと考える方が難しい。連綿と続けられていた養蚕業は、江戸時代における綾部藩主九鬼氏の農政改革によって急成長を遂げたと思いたい。綾部藩主九鬼氏が農学者安藤信淵(のぶひろ)を招聘し農政改革を進め、栽培作目の転換を進めたのだ。
 農政改革によって幕末ころからようやく主要作目は米麦、綿から米麦、桑へ変わり、桑の作付けが進んだ。由良川両岸の比高20〜50b辺りの砂地でやせた低地に桑を植え、農家の天井上部の空間を蚕室にして本格的に「お蚕さん」は飼養された。当時、綾部の養蚕業は蚕種を他所(県)から移入する副次的蚕業であった。幕末を経て、明治時代には郡是・神栄の2大製糸会社が発足し、綾部の生糸は世界に名を成すようになったのである。
 大正時代には綾部(何鹿(いかるが)郡)の養蚕家は農家戸数の過半(大正14年、54.9l(4,756戸))を超え、昭和初期には5,000戸近くにもなり綾部は生糸の主産地を形成するに至ったのである。
 藩政期は、何鹿郡の農地の多くは大地主が所有し、農民は冬季の出稼ぎによって生活を支える零細農民であった。養蚕の普及によって農家の生活は豊かになり、鎮守の祭りの鉦も天高く鳴り響いたことであろう。
 しかしまた、お蚕さんは生き物。養蚕家は天井から聞こえる「ムシ、ムシ…」と桑を食む音を聞きつつ神仏にすがる思いでお蚕さんを育てた。それは当に祈りに等しいものだった。古老は、「それはしんどい(辛い)仕事でした。寒い日は(ひい)を焚いて蚕室をぬくめ(温め)ました。(えぇ)の桑は夜中にもやって(与えて)大事に育てました。」と語る。
 養蚕家にとって蚕が結んだ繭は当に中川権次一統の彫物に見る宝珠にも等しいものであったに違いない。養蚕の振興によって余裕ができた農家は家を建て替え懸魚を設え、懸魚は周辺の非養蚕農家にも伝搬したことであろう。
 権次の龍は目をむき、イラカを逆立て、3本の爪でしっかり宝珠を握り、盗られまいとして侵入者を睨みつけ、威嚇している。農家にとって宝珠はお蚕さんであり繭であったに違いない。阿吽の獅子や(ばく)は目をむき、牙をむき、辺りを警戒し、蚕室を守備する。氏子は寺社にお蚕さんに巣くう病害虫の退散を願い、お蚕さんが育ち繭を結ぶよう神仏に祈ることもあったであろう。
 農家の祈りはお蚕さんの住む自宅にも及び、主棟の破風拝みに懸魚を設え、お蚕さんの無事を祈ったに違いない。綾部(市)の農家住宅における懸魚の由来を私はそのように思う。−令和6年4月−