京都
滴水禅師のこと−綾部市白道路町中村−
 奥丹波に綾部市という人口3万4000人余の市がある。市の中央部を由良川が貫流し上林川、八田川、犀川、土師川などの支流が流れ込む。流域は河岸段丘がよく発達し田畑が拓け、尾根筋に多くの古墳が築かれている。
 市の北西部に白道路(はそうじ)という町(地区)がある。そこは神浪山の南麓に広がるのびやかな田園をなし、地区の北部を由良川の支流犀川が西流する。町の南部の谷川は由良川の支流八田川に流れ出て、神浪山が犀川と八田川の分水嶺をなしている。 ‘大賀ハス’で知られた行基菩薩開創の古刹極楽寺はこの町にある。
 丹波・丹後地方には、奈良時代の開創にかかる寺が実に多い。そういう土地柄からか京都市中の名のある寺の住持となる者もまた少なくない。
滴水禅師生誕地の碑
 滴水禅師もまた丹波綾部(白道路)を故郷とする。9歳で僧籍に入り、名を成した人。藩政期から明治期に活躍し天龍寺及び門跡林丘寺の中興の祖で、天龍寺管長を二度務め、禅宗三派の管長に就いた異色の人である。白道路に‘滴水禅寺生誕地’の碑(写真)がある。極楽寺境内の公園の一角には滴水禅師の顕彰碑などがある。

 天龍寺は霊亀山天龍資聖禅寺と号し、禅刹五山の第一に列せられる巨刹。夢窓疎石(国師)が足利尊氏を説き、亀山上皇の離宮の地に開山した尊氏所縁の寺。疎石の建議により元国に商船(天龍寺船)を通わせ、七堂伽藍を整えたことはよく知られている。洛西第一の巨刹となり、盛時に寺域の塔頭は115カ寺を数えた。

 滴水は文政5(1822)年4月、父上田彦兵衛、母絹(京都府何鹿郡中上林村八津合から輿入れ)の三子として何鹿郡物部村字白道路で生まれた。幼名を宜牧(諱)といった。4歳の時に父が死亡。京都府加佐郡河守の親類由里清左衛門のもとに引きとられ、ここで5年間育てられた。9歳のとき舞鶴の龍勝寺(現舞鶴市行永)に小僧に出され、大法和尚のもとで10年ほどここで過ごした。
 宜牧の身を案じる母絹は藪入りの日に上林の実家に行くと言って家を出て、しかし実家の敷居をまたぐことなく行き過ぎて村はずれで草枕を結び、明け方から更に3里歩き、険しく昼なお暗い菅坂峠を越え龍勝寺を訪ね、山門脇の生け垣の間からそっとわが子宜牧の姿を追うのだった。絹は宜牧に言葉をかけることもなくまた、もと来た道をたどって白道路の嫁ぎ先に戻って行ったという。村人から絹の姿を見かけたと聞いた絹の母は爾来、藪入りのころになるとかど口にそれとなく蓑とおにぎりを用意したが、絹が手にしたことは一度もなかったという。しかし親心子知らずとはこのことだ。腕白で檀中の評判もよくない宜牧はとうとう寺を追い出されてしまった。
 河守の養父のもとへのこのこ戻ることもできず、宜牧は生涯の親友山本治右衛門に見送られ白鳥峠(白鳥街道)を越え、東山寺(現舞鶴市字倉谷小宇椿ケ谷)の天猷(てんゆう)和尚のもとに駆け込むのだった。宜牧はこの東山寺で人生の大きな転機を迎える。
 天猷和尚は後に南禅寺の管長になった高僧。この寺へ備前(国)の曹源寺から儀
龍勝寺(舞鶴市)
東山寺(舞鶴市)
山禅師が教戒の用向きでしばしば来ていた。宜牧の素質を見抜いていた天猷和尚は儀山禅師のもとで修行することを宜牧に勧め、宜牧は迷わず、3年間いた東山寺を後にして曹源寺の儀山禅師のもとに向かった。宜牧19歳の時だった。
 宜牧の曹源寺逗留の名目は掛錫。禅門の厳しい審査が待ち受けていた。宜牧は後年、厳師の名をほしいままにした。その人となりは曹源寺において形成されたとみることができるだろう。
 曹源寺にたどり着いた宜牧は山門に立ち入山を求めた。しかし儀山禅師は入山を許さなかった。門前で飢えと雨に打たれて3日間立ち続け、ようやく縁側に上げてもらいさらに1週間、飢餓に耐えた。
 宜牧はようやく儀山禅師との相見(しょうけん)の機会を得た。宜牧は持っていた矢立(やたて)をお金に換えて10銭の相見香をつくり、ようやく相見の礼に浴し、進んで儀山禅師に公案(禅問答)を求めるのだった。
 齢19歳の宜牧。禅師は未熟と見たのか一番平凡な‘趙州無字’の公案を与え、「考えてみなさい」と言い残しその場を去る。解を求めて苦悶する宜牧。半年を経て寺は冬制の臘八接心(12月1〜8日)に入った。このころ、宜牧は霊覚を得て公案の見解(けんげ)を儀山禅師に申し出る。しかし、もうひとつの出来栄え。老師は宜牧を相手にしない。それでも禅師にくらいつき見解を示す宜牧。とうとう老師は宜牧を一喝し、宜牧の襟首をつかんで部屋から叩き出す。勢い余って頭を柱に打ち付け、面が裂け出血。しゃくりあげしゃくりあげ泣いて耐え、悔しがる宜牧。禅堂に戻って扉を開き、ギイーという音がする刹那に宜牧は解を得た。再び儀山禅師のもとに参じて見解を申し述べる。儀山禅師は「それでよい」と頷き、穏やかな顔でニコニコと笑っておられる。宜牧が禅門の第一難関を突破した記念すべき日となった。宜牧は曹源寺で来る日も来る日も修行を重ねる。
 ある日、宜牧が風呂当番であったとき、入浴中の儀山老師から風呂が熱いので水を求められたところ、水桶の余水を捨て桶一杯に水を汲み老師に渡そうとしたところ‘殺生とは必ずしも物の命を取るの謂にあらず、一滴の水、一分の時間も無駄にすること之即ち殺生なり。一滴の水も草木にかければ生き、溝に捨てれば死ぬ。木にかけてやれ’と叱責教戒された。爾来、宜牧は一滴の水もおろそかにすることはなかったという。滴水の道号はこの教戒から生じた。曹源寺で苦行すること10年余。滴水28歳の時、宗旨の蘊奥(うんおく)を極めた。嘉永2(1842)年、滴水は儀山老師から安芸の仏通寺に瞶翁(きおう)和尚を尋ねるように命じられる。
 滴水は仏通寺で3年間修行の後、嘉永5(1845)年、31歳の時京に上り、嵯峨広沢の要行院に義堂長老を訪ねた。義堂長老が曹源寺で修業時代の先輩の好からだった。
 義堂長老が天龍寺前版となって鹿王院に栄転すると、滴水は後を受け、10年余りを要行院で過ごし、しばしば天龍寺に義堂和尚を訪ね、儀山老師が上京すると妙心寺に行き教えを請うなど研鑽を積むことを厭わなかった。
 文久2(1862)年、滴水41歳の時、天龍寺の西堂(さいどう。法制一会の導師。要職)に栄進した。義堂和尚に代わって碧巌録を提唱し、雲水の説得を行った。
 西堂の職務は管長代役の渉外担当の役目もあったようである。維新前夜の大変困難な時代で時に、東寺や天龍寺などの巨刹が諸藩兵士の宿所などに使われ、寺が戦乱に巻き込まれ炎上、廃寺となる危険がいつも同居していた。滴水に緊張の日々が続く。折りも折り、元治元(1964)年7月、長州藩と敵対していた薩摩藩のため同寺は焼け落ちた(仔細、後述)。
 この受難から4年後に王政復古。その年、義堂長老が示寂し、滴水は天龍寺前版(ゼンペン)の要職を得て臨済録を提唱する。名声を得ていた滴水は、明治4(1871)年、天龍寺の初代管長に就いた。
 寺は維新の戦乱で痛手を受け、版籍奉還や廃仏稀釈、挙句に寺領を奪われ、僧侶は生活の糧すらままならない状況を呈していた。加えて天龍寺は「天竜乍住無堂宇・・・」と滴水が偶に記したように、伽藍は薩摩藩の焼打ちによって滅した(仔細、後述)。天竜寺の再建は管長たる滴水の心痛の種であった。
 戦乱により焼け落ちた南都東大寺の再建は、勧進(浄財の喜捨)によって再興されてきた。しかし維新後、法令により勧進が禁止され天龍寺の再建は遅々として進まなかった。明治12(1879)年、滴水は内務省に対し、寺院勧進の申し出を行い許可された。この時、天皇皇后陛下から下賜金や皇族等の寄附もあり、天龍寺の再建は一歩前進した。爾来、寺院再建のための勧進が許されるようになり、天龍寺の範は全国の荒廃した寺院の復興に光を与えるものとなった。
 このころ敵水は禅宗三派の管長に任ぜられ、山陰山陽の教化を担当するなど宗教界のリーダーとして知られるようになる。東京の寶林寺(永田町)に天龍寺の衆僧数十人を住まわせて、自ら月1度の講座を行った。請われれば労を厭わず出かけていき禅の普及に努めた。維新の元勲山岡鉄舟、京都疏水を完工した北垣国道京都府知事、陸軍中将鳥尾得庵、落語中興の祖三遊亭圓朝なども参禅し、教戒を受け滴水を師と仰いだ居士である。
 さらに滴水の功績の一つに、門跡林丘寺(音羽御所とも称せられた)の復興があげられる。同寺は京都・修学院(京都左京区)に、後水尾天皇の第一皇女緋宮が建立した寺。維新後、凋落し見る影もなくなりその復興が滴水に託されたのである。すなわち、明治17年、政府は勅命によって林丘寺を天龍寺の付属寺院とし、管長滴水の主導によって再建が始まった。滴水は見事、林丘寺を再建し、天龍寺の再建にも目途がついた。明治25年12月、齢70歳を超え、一番弟子で福知山出身の龍淵に管長を譲って自らは林丘寺に隠居。同寺に、‘曹源一滴’の寿塔を建てた。
 龍淵は天龍寺再建の功労者滴水に花を持たせるため再び老師に管長職を譲った。しかし、老師は明治31年暮れころから体調がおもわしくなくなり、再び林丘寺に戻り療養したが、甲斐なく明治32年1月20日入寂。78歳だった。遺骨は林丘寺の曹源塔下に葬られた。翌明治33年、天龍寺は滴水の弟子峨山和尚のもとで見事竣工成り、復興した。総門、法堂、方丈、林泉等々・・・皆立派である。林泉の中心池を‘曹源池’と称する。経蔵の東に滴水、峨山二禅師碑がある。
 滴水禅師は儀山禅師の垂訓を大事にして龍淵、峨山、愚庵など多くの弟子を育て、宗教界の発展にも大いに貢献し生涯を全うした大導師であった。
 滴水禅師は管長就任後、しばしば小僧時代を過ごした懐かしい龍勝寺に帰山した。明治16年、龍勝寺住持が遷化したおりには、住持の遺言を受けて編代を務めた。
 かつて、腕白不肖の行いによって龍勝寺を追い出された滴水禅師であったが、檀中や縁者に会うと素直に過去を懺悔し、禅師の話に泣かない者はいなかったという。
 禅師が檀中の老婆から母絹のことを知らされたのはこのころだった。禅師が龍勝寺に教戒に赴き、日の暮れ時に寺周りのたんぼ道を歩いていたとき老婆から、「和尚さん、えらもんになってお母さんもよろこんでなさるで。あんたが小僧さんのときになぁ、暑い盛りに毎年、来てでしたわ。菅坂を越えてきた言うて草履もいたんで、足から血ぃがでとりましたで。顔色が悪いし、しんどそうやったんで水と替えのわら草履 をさしあげたことがありましたわ。振り返り、振り返りなんども腰を折って、帰って行かれましたで。」という。禅師はその場に立ちすくみ、やがて崩れ落ち、ところ構わず号泣したという。齢60余歳、名僧・厳師の名をほしいままにした滴水であったが、老いてなお無学の母に近づけない人間滴水が己の非力を詫びた瞬間であった。
 綾部の白道路に、滴水禅師の生家は今はない。 白道路の鎮守上宮神社の東、200メートルほど進んだ道路脇に‘滴水禅師生誕地’の石碑(写真)が建つのみである。石碑の揮毫は門跡林丘寺の桂月尼である。澄み切った寒村の山裾で、禅師の生涯を思ってみるのもよいだろう。

滴水禅師と村田新八
 幕末、尊王攘夷の風が吹き荒れ、薩摩、長州、土佐の諸藩が京都を拠点にして、幕府に勅使を遣り或いは勅書を奉じて盛んに幕府を攻めたてた。下手に動くと暗殺される恐れがあり幕閣の威風も全く京都の諸藩士には届かない。京都は京都で諸藩が反目しあい京都を取ったりとられたりして騒々しい時代だった。
 薩摩の島津久光が勅使大原重徳を擁して江戸に入り(帰路生麦事件を起こす)、長州は世子の毛利定広が勅書を携え東下、遅れて土佐は勅使に三条実美などの公家を担ぎ出し勅書を幕府に差し出す。幕政改革を求める諸藩の動きが勅書のラッシュを招来させたのだ。
 しかし、桜田門外で井伊大老が殺され、坂下門外で老中安藤信正が襲撃され負傷するなど幕閣は身に迫る危惧におののき、なされるがままに推移する。
 文久3(1863)年、薩摩藩士は三条実美ら尊王攘夷激派の公卿を追放し、御所の警護役から長州藩士を外し、長州藩兵は三条実美ら七卿を擁して長州を指して落ちて行く。翌元治元(1964)年、再び長州藩士と長州系浪士の連合軍が京都回復を目指して御所に侵入。長州軍が蛤御門など宮門で薩摩、会津を主力とする守備兵に撃退される事件(禁門の変)がおきた。滴水43歳の夏であった。
 京都の寺はいつの時代にも騒乱に巻き込まれると、軍の指揮処や宿所となることがあった。蛤御門の変では元治元(1964)年6月26日、水戸藩士300余人が天龍寺に拠り、翌7月9日には長州藩の軍勢500余人が拠った。同7月18日に禁門の変を見るに至り、長州軍は薩摩・会津軍に撃退されると総崩れとなり天龍寺から遁走。勢いに乗じた薩摩軍200人余が天龍寺に入る。
 天龍寺の塔頭臨川寺にいた滴水は同7月20日、薩摩軍の隊長村田新八と会談。滴水禅師は「長州軍は1兵残さず退散した。由緒ある天龍寺を焼いてはならない。焼くならわが身を粉砕されたし。」と主張。村田は、「寺は憎くはないが、軍令により敵営に対し一発も(大砲を)放たずに退くことはできない。1、2発撃つが空砲、ご安心なさい。」と言いつつ発砲。しかし伽藍に火の手が回る。滴水禅師は祖堂から開山夢窓国師の木造を背負い、竹林に飛び込む。開山は守られた。翌21日、村田が会談を求めてきた。滴水禅師は、「伽藍を焼滅させたのは朝命か、村田一個人の命令か。」と反問。禅師に対し村田は、「この寺は賊に宿を貸したから、お礼に焼き払われたのだ。笑止千万。」という。滴水禅師は、「先には勤皇のためと言って寺を借りられ、今となっては朝命であると言って焼滅されるとは、仕方がないことです。」と会談を結んだ。
 会談の流れから結びは‘否定’(理不尽な行い)であるべきところ、滴水禅師は「仕方がないことです。」と結んでいる。禅の達者の口から出た諦観ともみられる言葉に実に強烈な黙示が読み取れる。滴水禅師はこの時、「仏罰を受けても仕方がないことです。」と、村田に忠告していたように思われてならない。村田は西南の役で没した。
 京都人が先の大戦を蛤御門の変と言い、薩摩を嫌う遠因もこの辺りにあるのだろう。もっとも、初代島津藩主の妻は丹後局、京都所縁の女性であるが蛤御門と言い天龍寺の焼打ちと言い、その溝は西郷さんをもってしてもなかなか埋まらなかったのだろう。

滴水禅師と山岡鉄舟居士らとの交流
 幕末から維新、維新後の明治の宗教界をリードした滴水禅師。天龍寺管長を三度も務め龍淵、峩山、愚庵などの弟子を育てる一方、街に出て参禅を勧め山岡鉄舟(明治の元勲)、三遊亭圓朝(落語中興の祖)、鳥尾得庵(陸軍中将)、北垣国道(京都府知事)など諸居士と親交を結びその生涯に少なからず影響を与えた。

山岡鉄舟
 滴水禅師が鉄舟宅で参禅を受けるときは激しい喝声と瞋拳が雨あられのように降り注ぎ、門弟たちは鉄舟が禅師から怒鳴られ暴行を受けているかのように覚えて禅師によい印象を待たなかった。
 鉄舟の弟子で剣客の村上政五郎は禅師の喝声が聞こえると鉄舟の安否が気が気ではない。遂に憎き禅師を尾行し、斬ろうとしたことがあった。しかし、幾度つけまわしても、抜刀の間がとれず遂に禅師の息の根を止めることができなかったという。禅師の座禅は人に誤解を与えるほど激烈を極めるものだった。
 鉄舟は多才の政治家で江戸城無血開城の真の立役者といわれる人物。接して動ぜず、西郷隆盛と会談し、江戸城開場の段取りをつけたとされる。後に、大悟に至り滴水禅師から「印可証明」を得ている。禅師をして「鉄舟は大器」と驚かせ一回一回、命がけであったと言わしめまた、鉄舟をして老師に遭わなければ予の今はないと言わしめ、気が通じ合った師弟関係が築かれていたようである。

三遊亭圓朝
 落語中興の祖と仰がれる三遊亭圓朝もまた、滴水禅師と師弟を結んだ居士だった。鉄舟から紹介された千葉立造(鉄舟の主治医の代診)が滴水の教えを受けることになり席が設けられた中に圓朝がいた。圓朝は鉄舟との所縁から禅門に入り、3年がかりで「末趙州無字」の公案を説いた精進の人であった。
 圓朝は千葉立造の新居披露宴に出ていた滴水禅師から「無舌居士」の号を与えられている。‘上手い噺より本心の噺に徹すべし(すなわち名人)’というほどの意味か。大圓朝の名をほしいままにしていた圓朝であったが、いたく感じ入った圓朝は京都に来るたびに林丘寺に滴水禅師を訪ね参禅したという。
 幕末は寺にとっても受難の時代であった。戦乱に巻き込まれ天龍寺は焼失。版籍奉還により寺領はなくなり宗教活動の継続すら危ぶまれる状況の中、滴水禅師は宗教界をリードする一方、門跡林丘寺の復興まで成し遂げた。天龍寺と林丘寺中興の祖と仰がれる。
 生誕地に建つ石碑など眺めていると、神浪山にこだまする喝が聞こえてくるようである。−平成25年7月−