京都
安国寺−綾部市安国寺町寺の段−
 室町時代、五山十刹に数えられ、塔頭16、支院28に及んだ丹波の名刹は、はじめ光福寺と称していた。当地は足利尊氏の生母上杉清子縁の上杉庄であり、光福寺は上杉氏の氏寺であった。尊氏は、京に室町幕府を樹立する前、建武2(1335)年に日向国国府庄石崎郷の地頭職を当寺に寄進している。暦応元(1338)年、尊氏が室町幕府を開くと、幕府は、元弘以来の戦没者の慰霊のため、国ごとに寺と塔婆の建立を命じ、寺は安国寺、塔婆は利生塔とよばれた。寺は必ずしも新築のものばかりではなかった。丹波の安国寺は、光福寺を改称し、尊氏との縁から全国の安国寺の筆頭とされ、大いに栄えたのである。
 寺は享保20(1735)年、山崩れのため損壊したが、寛保3(1743)年に再建されている。境内に三基の宝篋印塔がある。奥から尊氏の生母清子、尊氏、尊氏の妻登子の供養塔(写真左下)である。尊氏薨去後、その子で第二代将軍足利義詮が延文3(1359)年6月、尊氏の遺骨の一部と遺髪、袈裟などを納め、また登子が亡くなると翌貞治4(1336)年、その遺骨の一部を当寺へ納めている。これもまた、尊氏の生母清子の出所が丹波上杉氏であり、一族が帰依する寺塔であったから当然といえば当然のことであったのだろう。
 安国寺の門前近くをJR線が通り、踏切近くの公園に尊氏の衣冠束帯姿の像が建っている。踏切近くの野辺でシロバナタンポポが咲いている。南北朝の戦乱で散った戦士への鎮魂の花であろう。
京の街角(等持院の有楽椿)


足利尊氏の怨霊思想
 足利尊氏は優れた戦略家であるとともに、宗教心のある優柔の武将であったようである。
 元弘3( 1333)年4月、鎌倉幕府の射手として上洛した足利尊氏が丹波篠村に挙兵し、鎌倉幕府の拠点洛中の六波羅を攻め落とすと北条得宗の高時が鎌倉の東勝寺において郎党数百人とともに自刃し、鎌倉幕府は滅亡し、新制の建武政権が樹立された。新政権樹立の最大の功労者で中興の元勲と仰がれた尊氏であったが、高時の二子時行が建武2(1335)年7月、反乱を惹起させ鎌倉を占拠(中先代の乱)すると、京を発ち鎌倉に軍を進めた尊氏は時行を撃退し、新政権の瓦解を阻止したにもかかわらず、賊徒の行動とみなされ尊氏の建武政権への失望感は日増しに高まり、終に新政権に反旗を翻し、新田義貞を撃退し、翌建武3(1336)年1月に入洛し、都をとったりとられたりして10日余り経った建武3(1336)年1月25日、京から兵を引き丹波から播磨を経て九州において再起をかけることとなった。同年3月2日、尊氏は博多の多々良浜に菊地武敏を破り、東上の途につき、同年5月25日湊川の戦において楠木正成が戦死し、光厳天皇を奉じて入洛した。建武3(1336)年11月、ついに三種神器は後醍醐天皇から光明天皇に渡され、暦応元(1338)年8月、尊氏は待望の征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が成立した。篠村八幡宮に挙兵以来、実に5年余の短期間に、尊氏は八幡太郎義家の置文に託された通りに天下をとったのである。
 尊氏の天下とりは建武新政権の施策に失望した新興の武士階級の支持を得て成ったものであるとともに、古代政権から封建政権への過渡的時期において、いわば天皇、政権、庶民等各層間の基本的かつ今日的な相互依存の政治感覚を築いた点において今日的意義のある功績のひとつであろう。しかしまた、尊氏は、殺戮の巷に身をおく己の罪悪感にさいなまれる日々を送ったことは、敵味方のわけ隔てなく戦死者慰霊の願文を行く先々の寺社に奉納していることからも明らかであろう。わが国には、政変で亡くなった人の怨霊が天変地変などの災いを招くという思想がある。判官びいきに似通った思想であって、天満宮、天社など菅原道真の慰霊社がその典型的なものであり、敗者に学ぶべき真実を見出そうとする日本的信仰であろう。戦乱の敗者は悪であって、生前に再び勝利しなければ復権しないという欧米人の思想からみると、なるほど不可思議であるかも知れない。しかし、尊氏は、国ごとに安国寺と利生塔の建設を指示し、元弘以来の戦没者を慰霊したのである。今日までその寺塔が守られているものも多い。建武2(1335)年3月1日、光福寺(現綾部市所在の安国寺)に石崎郷の地頭職を寄進した尊氏の寄進状が残っている。文書に、‘寄附丹波国八田郷光福寺 日向国国富荘石崎郷地頭職事 右為祈四海之静謐一家之長久為救相模人道高時法名崇鏗並同時所々滅亡輩怨霊所寄附如件 建武二年三月一日 参議(花押)  光福寺長老’とある。尊氏の政敵高時慰霊の趣は、建武元年、後醍醐天皇に奏して宝戒寺を造営するなど頻繁である。そうした尊氏の思想が暦応元(1338)年、国ごとの安国寺及び利生塔の建設に反映されていったのだろう。