京都
京の街角(等持院の有楽椿)−北区等寺院北町−
 春浅い日、等持院の茶室清漣亭に淡い陽がさし、芙蓉池の袂で「有楽椿」が咲いている。樹齢400年余、根元の幹周り1メートル。「胡蝶侘助」の別称で知られる「有楽椿」の頂点木。織田有楽縁の侘助である。淡いピンク地に、赤紫の芯。花弁や多数のおしべが花冠の基部に付着。鮮やかなおしべの黄色にピンクの花弁。淡い陽を含んで美しい。
 有楽椿は、織田有楽斉(長益。織田信長の実弟)が茶席の花に用いたところからその名がある。ヤブツバキと中国のツバキの原種をかけあわせたツバキである。ヤブツバキにない明るさがあって京の茶人を喜ばせたものであろう。等持院の芙蓉池でみるように、有楽椿は茶室のある京の寺院で見ることの多い花である。
 有楽斉は本能寺の変の際、主君織田忠信が自害したのに自らは岐阜に逃れ、関が原の戦では東軍につき西軍の有力武将の首級をあげる働きをしたかと思えば、戦後は豊臣方に出仕。大坂夏の陣を前に戦列を離脱し、京都に隠棲し茶道に道を見出している。その生き様は実兄信長のような単純な明解さはない。幕府の間者説さえある。そのように憶測を呼ぶほどに有楽斎の変わり身は劇的であったが、調整型の武人として戦乱の世を生きぬくうちに有楽斉をして芸術活動に向わせる何かがあったのだろう。大坂夏の陣の後、洛北鷹ヶ峯に住して茶の湯などに没頭した本阿弥光悦などの存在が有楽斉をしてその道に向わせた何かがあったのかもしれない。
 等持院は、足利尊氏創立の寺。開山は無窓国師。衣笠山を借景にした庭園と義政好みの清漣亭で知られる。清漣亭は村田珠光や相阿弥らが杖を曳いた茶室。本堂に尊氏以下12代の木像を安置する。尊氏の墓はこの寺にある。−平成22年2月−