九州絶佳選
福岡
久米の残照(来目皇子)−志摩町−

 日本書紀は、西暦602年(推古10年)、来目皇子が新羅を討つため撃新羅将軍に任命され、二万五千の軍衆が筑紫の嶋郡(現在の糸島郡)に駐屯したとしるしている。ヤマト王権が朝鮮半島の本拠としていた任那(伽耶)の日本府を失い、さらに友好国百済が新羅に攻略されたため、新羅追討の詔勅がくだったのである。
 来目皇子は聖徳太子の異母弟。用命天皇の皇子である。ヤマト王権は、皇族を征討軍の将軍に据え、失地回復に並々ならぬ決意を表したのである。
 玄界灘に張り出した志摩半島北部の海岸沿いを行くと、野北という地区に久米という集落がある。当時の嶋郡は現在の前原市、福岡市の一部を含む区域。行政区画が現在とは異なるものの、集落に久米の名を残し、久米神社(写真右)が所在する。当地から弥生時代の甕棺墓24基や銅剣、銅戈などの副葬品が出土し、古代から開けたところだ。久米は、その地名などから推定して新羅征討軍の指揮所乃至は軍船の補給処が置かれた嶋郡の駐屯地とみて問題はなかろう。
 久米の火山の山腹に、来目皇子遺跡と刻まれた石碑と今古俯仰之碑(写真左下)が並んで建っている。来目皇子は、この高みから遠く壱岐、対馬を眺め、新羅遠征の作戦を練ったこともあったろう。
 602(推古10)年4月、筑紫に到着した来目皇子は、翌603(推古11)年2月に薨去する。その後、来目皇子の兄当麻皇子が征新羅将軍に任命され難波を発ったが播磨で同道した妻舎人姫王の薨去により帰京。ふたたび外征軍が新羅に向かうことはなかった。
 来目皇子は薨去後、周方(周防)の娑婆で殯し、河内埴生山岡(現在の大阪府羽曳野市)に葬られたと日本書紀はしるす。遺体がどのような経緯があって周防、河内に移されたか不詳である。日本書紀は、斉明天皇7(661)年、百済の救援に西下した天皇が橘広庭之宮で崩御すると遺骸を朝倉山(御殿山)に移し喪の儀が行われたとしるす。持統8(694)年には、大宰府で薨去した河内王が鏡山(現在の田川郡香春町)に葬られた例がある。久米集落の辺りで来目皇子の殯が行われ、墳墓が造営されても不自然ではないが、周防の娑婆で殯が行われている。なぜ筑紫で行われなかったのだろうか。
 さらに、602年4月に筑紫入りした来目皇子が同年6月に臥床し、翌603年2月に薨去した経緯についても書紀は何もしるしていない。来目皇子の薨去後、征新羅将軍に任命された当麻皇子は、同道した妻舎人姫王が明石で薨去すると都に帰りついに新羅を討つことはなかった。まったく不可解な事態が起きている。
 来目皇子は磐井の乱後も隠然とした力を温存していた北部九州の豪族によって死に至らしめられたか、そうでなかったにせよ豪族の抵抗が強く新羅に進軍できない何らかの事情が生じ、ヤマト王権は新羅征討を断念したのではないだろうか。 日本書紀は、来目皇子に・・・諸の神部及び国造、伴造等、併せて軍衆二萬五千人を授けたまう。・・・としるす。しかし、来目皇子はいったい嶋の駐屯地にどれほどの船舶と兵を集めることができたか疑問がのこる。軍衆二万五千人を授けられたといっても、ヤマト王権が兵を徴発し、組織的に彼らを動員できる軍防令は当時の日本にはなく、ヤマト王権がそれまでに朝鮮半島にしばしば進出した外征軍の編成は九州の国造軍が中心をなしており、それは白村江の戦(663年)においても当時、東国の国造軍の多少の動員は見られるものの基本的に異なるところはなかった。王権と国造の主従関係は、大臣大連といった王権と家父長的な結びつきをもった畿内の氏族とは異なり、中央集権化が未成熟な時代に部族長であった国造とヤマト王権との結ぶつきはさほどに強いものではなかった。したがって、ヤマト王権が磐井の反乱後、九州に屯倉を置き親衛隊を動員できたとしても、到底二万五千人の軍衆を用意できるほどのものではなく、かつ朝鮮半島を動かす力を蓄えていた北部九州の国造らの協力が得られない状況が生じていたのではないか。新羅の実力など朝鮮半島の政治状況を一番よく知っていたのはヤマト王権ではなく北部九州の国造ら地方豪族であったろう。ついに来目皇子の軍衆が野北の海に揃うことはなく、いたずらに月日を経るばかりで、来目皇子が薨去しても殯など喪の儀が筑紫で行うことができないほど豪族の新羅征討への強い抵抗が存在したのではないか。こうした筑紫の事情はヤマトにきこえていたことであろう。ヤマト王権は当麻皇子が洛内に戻っても再びに外征将軍を任命することもなく、新羅問題を棚上げにして直接、中国との外交を模索し始めるのである。
 志摩に散った来目皇子を悼み、今日も火山の来目皇子の遺跡に向う人の姿がある。来目集落の前面は野北の海。弓張形の美しい海岸が延々と続き、サーファーで賑わっている。−平成17年7月−