九州絶佳選
佐賀
菜畑遺跡(末盧館)−唐津市菜畑−
 唐津市菜畑から日本最古とみられる稲作遺跡が発見されてから十数年になる。当地に遺跡保存施設・末盧館(まつろかん)が整備され、遺物や竪穴式住居ジオラマ等が展示されている。屋外には、水田跡、竪穴式住居が復元され、同市内から発掘された支石墓の展示などもある。
 末盧館のある唐津は、松浦川流域の平野に比定される魏志倭人伝が伝える末盧国。なんとも夢のあるよい施設である。
  菜畑遺跡は縄文期の稲作を伝える遺跡。ジャポニカの炭化米に加え、アワ、ソバ、ダイズ、ムギの五穀やクリ、モモ、メロンなどの根菜や果物、クジラ、サメなど動物、魚族の骨、木製のクワ、エブリ、石包丁などの農耕具が出土した。私達はこの遺跡の発掘によって、稲作や食生活の基本が縄文から弥生へと緩やかに
支石墓
形成され、現代に脈打っていることを知ることができる。出土のクワなどの木製農具は、板付遺跡のそれとともに日本最古の農具である。菜畑遺跡は、稲作等の食文化や海洋文化のみならず、縄文・弥生の時代区分等についてまで、様々な問題を提起している。大変重要な遺跡であろう。
 九州においては、縄文式土器の特徴を残す弥生的土器と水稲栽培の痕跡を包含する既知の遺跡が幾つか存在する。それらの土器等から弥生時代の始期は紀元前2、3世紀よりさらに遡るとみる人がいる。今後も、農業生産基盤の整備事業等を発端にして同種の遺跡が発見される余地もあるだろう。
 弥生時代の区分について、稲作の渡来と、縄文式土器とは異なる薄手のいわゆる弥生式土器の出現をセットにして弥生時代と考えるのが一般的である。菜畑遺跡の発見は、弥生時代の始期や時代区分の定義そのものにまでおよぶ問題を提起しているといえるだろう。
 農耕を基礎とする生活習慣は徐々に変化を遂げるものであり、稲籾(短粒種)を携えた渡来人が日本人の骨格を変えるほど大挙して北部九州に上陸し、薄手の土器文化を産み、弥生時代の幕が下りたとは到底考えられない。まして弥生文化が100年ほどの短期間に関東地方にまで伝播したとはなお考えにくい。朝鮮半島との交流によって相互の文化が育まれたことは当然であるにしても、農耕文化はそれほど劇的に変化し、早い速度で伝播するものではないだろう。-平成17年5月- 

菜畑遺跡 菜畑遺跡(水田跡)