九州絶佳選
佐賀
幡髄院長兵衛−唐津市相知町久保−
 玄界灘に流入する松浦川の上流に相知町があり、久保という地区がある。地区の高所に公園があり、幡髄院長兵衛誕生地の碑が建つ。総高15メートル。棹石は、高さ6.3メートルで重量18トン。48トンの台座石に乗っている。
 碑は、昭和5年に完成してから七十数年間、平成17年3月に起きた福岡県西方沖地震にもよく耐え、倒壊することなく立っている。台座にコンクリート等による接着処理もなされていないという。まことに不思議な大石は、長兵衛の伝心の石のようにもみえる。
 長兵衛は、慶安3年(1650年)、旗本奴水野十郎左衛門との確執から、十郎左衛門に謀殺された。当時、無役の旗本には幕府から人夫(小普請役)の差し出しが課せられたが、人夫を常雇いにするほどの余裕のない旗本は、人夫の提供業を営む割元の斡旋によって人夫を得ていた。事件は旗本奴のリーダー・十郎左衛門と割元業の町奴・長兵衛との対立からだった。金銭トラブルなどが絡んでいたのだろう。徳川家康が関が原を制し、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し徳川8万騎の武威が天下に轟くと、傲慢無礼、酒色にふけるふとどきな旗本奴が江戸市中を闊歩するようになり、長兵衛に成敗を託する市民もいたのだろう。歌舞伎や浄瑠璃、講談で見聞するように、長兵衛は輿望に富んだ侠客で江戸の華とうたわれるようになったのである。
 長兵衛が相知の久保を出奔したのは、肥前松浦党の盟主・波多参河守親が豊臣秀吉の勘気に触れ、波多家が滅亡したことに端を発するものだった。波多氏の家臣鶴田因幡守勝に仕えていた伊太郎(後の長兵衛)の父塚本伊織は失職。伊織は長兵衛を連れ江戸に向かったが下関で病没。遺言により江戸の幡髄院を頼って単身江戸に入府、名を成すようになったのである。−平成18年2月−