俵津 草山事件の真相−西予市明浜町俵津−
  宇和俵津境界木彫立体地図(明浜町歴史民俗資料館所有) 
 宇和海の東岸はリアス式海岸。複雑な海岸線に岬、入江を織りなして美しい。俵津はそのようなリアス式海岸に発達した港町。古くは廻船や漁業で栄え、俵津文楽で聞こえた町である。
 町の背後に標高2、3百メートルの山塊が屹立し、この町の生活に大きな影響を与え続けてきた。俵津の人々は今、屏風を立てたように険しい山腹に石垣を積み上げ、ミカンを植え、天にも至る無数の園地を造成した。春のころ、石垣畑に菜の花が咲き、法華津湾(ほけつわん)をのぞむ景観は筆舌に尽くし難い。しかしまた、険しい山塊が迫る半農半漁の町は災害と背中合わせ。俵津の人々が背後の山に植林をして海を肥やし、伐期には木材を得たいと願うのもまた自然である。
 俵津の北側に迫る山の向こうは宇和(西予市宇和町)。宇和盆地の南辺部にあたり、藩政期には伊賀之上村や野田村、山田村など4か村が俵津と隣接。宇和は標高が高く、気温も俵津より1、2度低く降雪がある。もとよりこれら山村の生活のあり様は、海に開けた俵津とは大きく異なっていた。加えて俵津は伊予吉田藩(吉田伊達家)、宇和4村は宇和島藩(宇和島宗家)が統治していたが、吉田藩分知(明暦3(1657)年)の経緯から両藩の藩界が複雑に入り込み、かつ吉田伊達家は宇和島宗家へ従属していたわけではなく、両藩領民の間にも気風の違いがあったのだろう。
 元禄5(1692)年、宇和の村々と俵津の間で山の境界につき紛争が生じる。吉田藩分知の三十数年後の紛争だった。宇和・俵津境界紛争はいわば国境の確定に係るような行政上の大問題を潜ませ、境界紛争が完全に解決したのは昭和31(1956)年4月2日。分水嶺を境にしてその南側が俵津の所有地となるまで、実に265年を要した。全国には境界争いから流血騒ぎに発展した事件は少なくないが、二百数十年にわたって境界争いを続けたところもザラにはない。俵津の人々はまったく驚くべき執念によって闘争を続け、所有権を勝ち取ったのである。俵津は今、その歴史の山を何事もなかったように法華津の海に映している。
俵津

 元禄5(1692)年に発生した宇和・俵津の境界紛争につき、その初期における実態は不詳であるが、文化6(1809)年から宇和・俵津の紛争は一段と激しさを増し、文政2(1819)年にようやく係争地は宇和・俵津両住民の共同管理地とする奉行所の裁可があり、一定の決着をみている。共同管理地は年に1度、宇和・俵津の住民が出役して火入れ(山焼き)が行われ、以来、数十年にわたって山焼きは中断することなく続けられた。間地にはやがて青々とした草が茂る。俵津の人々が宇和・俵津境界紛争を「草山事件」と呼び慣わすようになったのも火入れ後のそうした間地の有様を示すものだろう。奈良の若草山に似た対処かと思う。
 当時の俵津の統治は吉田藩が行い、同藩御山方下役人に松崎寛兵衛という人がいた。境界問題の解決に奔走し、俵津にもしばしば足を運び、紛争解決に汗をかいた功労者。宇和島藩との交渉や地元俵津の庄屋、組頭などの村役人や地下の住民への説明などに使ったとみられる「宇和俵津境界木彫立体地図」(写真上)が遺存する。同地図は明浜町歴史民俗資料館に展示、保存されている。
 宇和俵津境界木彫立体地図は紛争地に係るジオラマ。縦2.8メートル、横2.6メートルのケヤキ製。四畳半ほどの大きさで25のブロックに分割し、ほぞ穴で組み合わせてある。宮大工儀三郎作。峰(分水嶺)の様子などが手に取るように分かり、精巧な造りである。寛兵衛はこの木彫地図を櫃に入れ、馬の背に託して奔走した日々が目の前に浮かぶ。紛争解決に大いに役立ったことであろう。寛兵衛の功あってその18年後、係争地は既述のとおり宇和・俵津の共同管理地となり境界問題の解決に一歩踏み出したのである。
 しかし、俵津住民はなおこの措置に満足していなかった。紛争に係る共同管理地は多分、分水嶺を越えかなり南側(俵津側)にまで進出していたものと推され、俵津の井上駒次郎という者は分水嶺が間地解除境界であると主張する。明治5(1972)年8月、ようやく井上の主張が通り、分水嶺から南側を俵津浦進退地(処分権を含む占有地)とされたが、境界係争地はなお入会地(草刈場)として残り、所有権を保証するものではなかった。俵津の進退地となっても分水嶺の南側一帯は、依然として草山であることには変わりなかったのである。 その後、入会権の解除につき俵津と宇和各村との談判(話合い)が続いた。明治〜大正にかけ俵津住民は入会地100ヘクタールに植林を施すなどの実力行使を続けつつ、宇和各村と地道に条約書や覚書を取り交わし、所有地の確定を進めるのだった。
 昭和31年4月2日、俵津はついに最後まで未解決であった10町歩余の入会権を宇和から20万円で買い取り、完全に分水嶺から南側の所有権を得た。その間、松崎寛兵衛着想の宇和・俵津境界木彫立体地図が活用されたことは言うまでもない。手ずれして光沢を放つ木彫地図がその長い闘争の歴史を何よりも如実に語っているように思う。
 俵津の人々の難事に屈しない強い精神力は、いま背後の山に見事なミカン畑を造成し、さらにその上部に針葉樹の人工林を産み出している。宇和との境界紛争地辺りの林班が美しい。
 伊予吉田探訪の入口として明浜町歴史民俗資料館は良い施設である。機会があれば施設を尋ね、松崎寛兵衛所縁の宇和俵津境界木彫立体地図を見学されるとよいだろう。−平成23年7月−

参考  : 大福茶のこ