ロシア兵の墓−松山市山越−
 松山城の北、御幸山麓に松山藩主加藤嘉明の地割によって寺町が生まれ、随分多くの寺がある。山頭火の一草庵もその界隈の御幸寺の境内にある。
 寺町の一角に来迎寺という古寺がある。来迎寺の裏山は墓地になっていて、松山城普請奉行足立重信や日本の物理学の祖青地林宗の墓がある。その横にあるのがロシア兵の墓だ。日露戦争で捕虜となったワシリー・ボイスマン大佐ら98人が葬られている。
 松山に全国初の捕虜収容所ができたのは明治37年(1904年)。捕虜は公会堂や寺院に収容され、今の文京町の城北練兵場には25棟の病棟が建てられた。 松山に収容された捕虜は一番多いときには、6千人に達したという。捕虜は寛大に扱われ、外出は自由で温泉、観劇などを楽しんだという。−平成16年7月− 
参考 : 第一次世界大戦下の捕虜収容所(徳島)