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佐柳島−仲多度郡多度津町- |
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さなぎじま。美しい名の瀬戸の小島は、多度津港からフェリーで50分。塩飽の海に細く長い島影をよこたえる(写真上)。島の北に長崎、南に本浦の集落がある。
「早春のころになると除虫菊の花が咲きはじめ、島周りは真っ白になりした。島に旅館や民宿もあってずいぶん賑やかでした。今は150人ほどになりました。多度津からパイプラインで水が来るようになり島の暮らしもずいぶんよくなりました。」と、島の古老。
備讃の峰に雪が積もることがあっても暖かい海流に囲まれた島に雪は無縁である。しかし、きょうは朝から珍しく断続的に横なぐりの雪が舞い、高登山(249メートル)に吹き上がっている。ビュートの小島が消え、また浮かぶ景色は墨絵をみるようである。
高登山は天狗のすむむ山。本浦の集落から長く急な石段を登ると、山の中腹に大天狗神社が鎮座する。社殿の西に、岩陰に刻まれた天狗殿が「よう登って来たのう、しんどかろう」と両手を広げた姿して微笑んでおられる。さらに険しい参道を往くと、船玉神社の祠があり、最奥に大天狗神社の奥の院の祠がある。一対の狛犬が祀られ吽形のものは陶製の狛犬。破損の補修痕がある。もともと一対の陶製の狛犬が奉献されていたのだろう。参道は手入れが行き、ウバメガシ、クヌギ、トベラの混成林が清々しい。眼下に瀬戸内海の絶景がひろがっている。
本浦の西のはずれに、両墓制(埋め墓と詣り墓)の習俗がのこる墓地がある。脇に東蓮寺が建っている。両墓制は遺体を埋める埋め墓と折々に拝む詣り墓を別々の場所に営む風習である。古代の古墳の主は、遺体が墳墓中の石室に封じ込まれ、埋め墓と詣り墓がひとつであったが、庶民の墓制は近年まで両墓を基本とする地域がずいぶん存在した。火葬に抵抗感を感じる時代がながく続き、遺体を地下深く埋めることのなかった時代には集落の遠くに埋め墓を設け、1、2年のうちに自宅近くに詣り墓を設けるところが多かった。死後の世界を信じない民族はいないように、わが国においても黄泉の国、根の国、底の国の存在が信じられたことは記紀が伝えるとおりである。時代が下っても年に一度、死霊を迎え供養する盂蘭盆の行事は今なお盛大である。私たちは詣り墓に死霊を祀る擬制を通じて両墓制を支持してきたが、地中深く遺体を埋葬する技術の発展や火葬の普及が両墓制の維持に決定的な影響を与えた。特に火葬の普及は遺体の埋葬地と埋葬法に大きな変化をもたらし、また埋葬地の確保の問題なども手伝って両墓制は崩壊をみたのである。四国の島嶼部に両墓制が維持されていることは、私たちの生死にかかる重要な民俗を伝えるものであって貴重である。
境内の閻魔堂の横に、万延元(1860)年、日米修好条約批准のため独力で太平洋を横断し渡米した幕府使節団の警護船「咸臨丸」の乗組員平田冨蔵、佐柳高次両名の顕彰碑が建ち、幕末期に雄飛した佐柳島出身者の快挙を偲ばせている。佐柳高次は帰国後、土佐海援隊の隊士となり、竜馬と行動をともにしたと伝えられる。龍馬の妻おりょうに池田屋の一件を伝えたのは高次である。
本浦から海岸線を北方向に進むと、八幡神社、黒色の夫婦岩などが海岸線からみえる。長崎集落にもに両墓制の墓や愛宕神社、金毘羅神社、西国霊場などがある。島にずいぶん神社が多いのは国内外に雄飛した人々の海への祈りを込めたものだろう。-平成17年- |
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