|
|
|
牛島は、丸亀港からフェリーで約15分、塩飽諸島のひとつである。本島、広島の南に位置し、周囲約4キロ、人口18人の島(写真下)。
島の東西に山が聳え、島の北と南に集落がある。北側の集落が里浦、南側が小浦である。小浦集落の戸数は3、4戸。里道が山の間隙にあり両集落を繋ぐ。
フェリーが発着する里浦の波止場に立つと、狭い海峡に赤灯台が立ち、その北に本島、本島の左手に広島が迫る。波止場の真東に瀬戸大橋の斜長橋が南北に架かる。海岸端のバベ(ウバメガシ)の並木は集落の防風林。島ではノリ養殖、底引き網、刺し網などの漁業が盛ん。魚は丸亀(香川)や下津井(岡山)に卸している、と島の漁師。
牛島は、内海を縦横に往来し、あるときは御用船方として兵役につき、あるときは廻船を操り四海に雄飛し巨万の富を島にもたらした塩飽水軍の島。牛島の丸尾五左衛門は、「内海の海上王」の名を欲しいままにした大船持だった。船積石高1万1130石を擁し、全国の港、港を廻航したのである。長喜屋宗心やその子長兵衛などの大船持も牛島を本拠にして雄飛した海運王だった。
里浦の極楽寺の境内で本堂、観音堂が静かに佇ずんでいる。境内の蘇鉄がやわらかい冬の陽を浴び、観音堂の石段脇で椿の大樹が赤い花をつけている。観音堂の裏手に回ると、菜の花がひっそりと咲いている。
鐘突き堂にさがる梵鐘(写真左下)は、延宝5(1677)年に長喜屋宗心が奉納したもの。宗心は泉州堺(現大阪府堺市)の治工・藤原家次に梵鐘を鋳造させ、銘は淨厳和尚が書いている。 |
淨厳和尚(律師)は江戸期の高僧。8歳で出家して高野山で真言学を習い、諸子百家の書を極め、5代将軍綱吉に法華経を講じ、日本の梵学史にも大きな足跡を残した人。江戸・湯島に淨厳和尚を招聘した綱吉は淨厳和尚のために霊雲寺を創建。元禄11(1698年)年、淨厳和尚は幕府より没後の塔院を建てるため土地を給せられ、妙極寺を建立。元禄15(1702)年、64歳で瞑目。妙極寺(写真左下)は上野公園の不忍池近くの台東区池之端2丁目にある。住宅街で静かに佇む寺。 |
塩飽・牛島の極楽寺の隣地は聖神社(写真左)。長屋門風の建物が付置された拝殿前に一対の燈籠が奉納されている。拝殿に向って左手の燈籠に「丸尾五左衛門」、右手のそれに「長喜屋長兵衛」と読める文字が刻まれている。両大船持の盛業のよすがをしのばせる。
里浦から小浦に通ずる里道を歩き、峠を越えると海岸線に向って水田がひらけている。島嶼部で水田を見かけることはあるが、石で囲った小さなため池(写真右下)が水田の中に点在する。なんとも不思議な光景である。水田は山間のくぼ地のようなところに
ある。小さな池を幾つも掘り、染み出る湧き水を貯留し水利となす一方、田の乾田化を図っている。池は、井戸ほどの小さなものを含め2、30箇所ほど点在する。土手から池の中心に向って細長い石柱が2本渡してある。水をバケツ或いはポンプで汲み上げ灌漑し、田植えが行なわれる。島民の耕地への慈しみがこのような特異な水利形態を生み出した。いつまでも残していただきたい牛島のもう一つの絶景である。−平成17年1月− |
|
|
|
|