木喰行道上人(円蔵院)−高松市鬼無町−
円蔵院
衣掛池
  鬼無の衣掛池(写真右下)の湖畔、県道33号線沿線に円蔵院(写真右上)がある。南に六つ目山、伽藍山を望む風光明媚なところ。今日は縁日であるらしく近在の人々の参詣が絶えない。堂内に数人、地区の世話人が籠っておられる。本尊右手の祭壇に大きな赤い舌をベロンと出した閻魔大王が祀られており、拝観させていただいた。
  嘘をつくと閻魔さんに舌を抜かれるいう俗信が、人間の無節操な言動を規正してきた。子供心には随分恐ろしい存在だった閻魔さん。どっしりした顔立ちにあごの下まで突き出た大きな舌は稀有であり、ほのぼのとした親しみがある。視覚を通じ社会生活の規範を教え続けてきた赤い大きな舌は、今日においても人々に嘘ををつくことを戒め続けている。
  閻魔大王像は木喰行道上人の手になるもの。上人は、甲斐国(山梨県)の人。千躰仏成就を誓願して、生涯を旅に明け暮れた行道の人。四国遍路の途中に立ち寄り、閻魔大王を完成させた上人は、1788年(天明8年)1月28日、歌を残しまたさすらいの旅路に杖を曳くのだった。
  年とりてけふ立そむるけさ衣いつきて見るや老いのともしび 
                        <木喰行道上人>
 上人の生年は1718年(享保3年)。閻魔大王像は上人70歳ころの作品である。上人は生涯に2度四国を遍路した人。2度目は10年後の1799年(寛政11年)。上人80才頃のことである。
 木喰上人はよほど四国に惹かれたようであり、寛政12(1800)年、故郷(山梨県西八代郡下部町古関)に戻ると四国堂を建立し、80余体の仏像を作り納めている。四国堂は大正年間に解体され、仏像は散逸したという。

 閻魔大王を刻み、・・・いつきて見るや老いのともしび、と詠った木喰上人。上人はその後も仏像を刻み続け、93歳で没する前年まで日本廻国と墨書した櫃を背負って北海道から九州まで全国を放浪し、行道の旅路に身を任せたのだった。
 木喰上人は22歳で出家。45歳のとき常陸国羅漢寺で木喰戒を受けた。さらに10年を経過した56歳のころ日本廻国の本願を発して、諸国行道に旅立った。日本廻国の修行僧は六十六部とよばれた。大乗妙典の1部8巻を書写して六十六か国の一ノ宮に納経する僧がそのように呼ばれた。木喰上人が仏像を彫り始めたのは62歳、北海道江差を漂泊のころといわれる。木喰戒を受けた上人は、日本廻国の本願に千躰仏の願を立て、五穀を断つ木喰戒を厳守したといわれる。この信仰と強靭な肉体が上人の千躰仏の成就と長寿をうんだのであろう。行道の途上、日向国分寺で10年間住職を務め、80歳を過ぎさらに積極的な行道行脚に身を託する上人に、超人的な生命力を感じない人はいないだろう。
 天明元(1781)年、木喰上人は佐渡に渡り4年間を過ごし、多くの仏像や書を残している。名もないお堂や寺院の奥の院に地蔵菩薩像や薬師如来像、出釈迦像などを安置し、今なお島の人々の信仰生活を支清源寺えている。上人が佐渡で彫った仏像には「三界無庵無仏木喰行道」の銘がある。「三界萬霊」と書くべきところ、上人は「無庵無仏」とその信念を墨書して千躰仏への夢を追い続けるのである。
 京都府亀岡市八木町に清源寺(写真右)という寺がある。文化3(1806)年10月から数か月間同寺に滞在し、欅作りの仏像等28体の刻み、うち22体が現存している。木喰上人89歳の作品。保存状態がよく、また諸仏に時代を感じさせない躍動感がある。庶民とともに仏道に精進した上人の忘れ形見であろう。面目躍如たるものがある。このほか宇部市山門の松月院の作品など上人が80歳を越えた頃の造像は、微笑仏の極点を感じさせる。老いるほどに成長する木喰上人を思わずにはおられない。 平成16年9月−