錦帯橋−岩国市−
しのぶれど 人はそれぞれと  御津の浦に 渡りそめにし ゐか
い津の橋   <小野小町歌集>
錦帯橋
 岩国の錦川に架かる錦帯橋はいわゆる太鼓橋である。太宰府天満宮や九州各地の鎮守などで今日でもしばしば目にするポピュラーな橋である。しかし錦帯橋は、水切りを施した石造りの桁に梁部が木製という特異性に加え、五連構造の誠に希有なものである。橋の向こうに聳える岩国城を借景にして錦帯橋を眺める景観は、確かに古今の名橋中の名橋であろう。飽きることがない。

 仁徳天皇の14年(4世紀)、今の大阪の猪飼野(いかいの。猪甘津)に小橋おばしをかけたという記述が日本書紀にみえる。文献にあらわれた最古の記録である。猪飼野の平野川(百済川)にかけられた橋かと思う。終戦後、小橋という地名が猪飼野に残っていたと記憶している。
  架橋の証拠を残す最も古い橋は、山城の宇治橋。4言24句の石文からなる宇治橋碑断石が橋寺(放生院)に現存する。石文は、「人馬亡命」「莫知杭竿」など架橋の経緯に触れ、山尻やましろ恵満の家からでた道登が大化2(646)年に架橋したとしるす。本邦における架橋のありようははなはだ漠然としているが、この宇治橋碑断石は7世紀中様における橋の建造の事実と造立の経緯を明証している。
 道登は仏徒であって、碑断石中に「成果彼岸」の教旨がみえ、当時の公共事業のあり方を探るうえでも貴重なものだ。讃岐の満濃池の修築に弘法大師を必要とし、奈良東大寺の再建に重源を必要とした。大化改新をもって税収基盤を確立した国家といえども、公共事業の実施につき事業費の出費や架橋技術に多くの課題を抱えていたことであろう。古代から藩政期に至るまで、架橋事業は帰化人の技術を得つつ僧侶によって主導され完成したものがはなはだ多いのである。
鞘橋(金毘羅宮)
皇居二重橋

 日本の橋は、独木橋(丸太橋)にはじまって、縄橋、蔓橋、呉橋、鞘橋、石橋など多様な形式がある。現存する古橋も多い。宇佐神宮の呉橋、金比羅宮の鞘橋(写真右)などは木橋の古典だし、祖谷山のシロカズラ橋は今では観光施設としてよく知られている。
 中国風の石橋は、日本では比較的、歴史が浅い。皇居の二重橋(写真右)や長崎の中島川の眼鏡橋、天草の町山田川の祇園橋、熊本の坪井川の明八橋など石橋の中には熊本県下の水路橋を含めて、今も供用されているものが随分ある。百済川に架けられたゐかい津の小橋の構造は不明であるが、日本書紀に特記されるくらいだから単なる木橋ではなかったのであろう。百済川は大阪湾に通じ、舟の往来が想定できるから当時としては珍しいアーチ式の呉橋(石橋)が架けられたのではないかと思う。だからこそ、小町歌集にみられるようにゐかい津の橋として、後世にまで語り継がれることになったのだろう。
 鹿児島の甲突川や諫早の眼鏡橋は一応、役目を終えたが、人々の脳裏から消え去ることのない名橋である。それぞれ地元の公園で保存、展示されている。

 我が国には瀬戸内海や五島、天草など多くの島嶼がありそこで生活する人も多い。近年、安芸灘や周防灘のように本土と島、島と島の間を繋ぐ橋が随分、整備された。1000メートルを超える橋も少なくない。瀬戸内海で培われた日本企業の長大橋の架橋技術は世界に比類のないものだ。日本のそうした長大橋の施工技術もまた後世にまで保全されるべき財産である。−平成18年4月−

錦帯橋
現在の宇治橋