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 錦帯橋−岩国市−
 岩国に錦川に架かる錦帯橋という木造五連のアーチ橋がある。わが国最大のアーチ橋。長さ193b、幅5b。延宝元(1673)年完成。日本三奇橋(錦帯橋・山梨の猿橋・木曽の桟橋)の一つ。橋脚部分以外は木造。圧倒される巨大な橋は藩主吉川廣嘉の治世最大の功績であるだろう。
 錦川は急流かつ激しい洪水の常襲地帯にある。このころアーチ橋の先進地鹿児島においても恒久橋を築造することはそう容易いことではなかったはずだ。繰返しおこる洪水は廣嘉公の悩みの種。巨費を要する橋の架け換えは藩財政を圧迫する。「防長史談」、「岩邑年代記」などの史書によると「横山渡橋仰せ付けられ」、殿様「石切場へも成らせられ」等々の記述があり、流されても流されても恒久橋の知恵を殿様自らが指揮したのだろう。
 遂に廣嘉公は家臣、細工人等々を召し出し、意見を聞きながら自らの橋の構法を話し、城山の麓の萬屋谷奥に仮小屋をつくり自ら工事監督を行って架橋を督励したという。すざましい廣嘉公の橋への執念は遂に延宝元(1673)年に実を結び完成したという。
錦帯橋
 しかし橋の結末はこれだけでは終わらなかった。「岩国沿革志」によると橋完成の延宝2(1674)年5月、橋は1年ももたず流失してしまったのだ。廣嘉公の悲しみと落胆は想像すべくもないが公はその4日後に再建架橋を起工した。治水への執念は近世領主中、傑出して早い。加えて洪水の水勢衝突を考えて橋脚の石台及び石台下等の工法に改良を加えたというから廣嘉公の前に出ると技術陣の緊張感も極まったことであろう。
 さらに橋名について一時、青梅橋の称が用いられていたようであるが広く凌雲橋、凹凸橋、青梅橋等々の称が提案され、佳名の「錦帯橋」が選定され、渡り初めも盛大に行われた。以後、約20年ごとに五橋の架け替えが行われたという。
 錦帯橋はわゆる太鼓橋である。太宰府天満宮や九州各地の鎮守などで今日でもしばしば目にするポピュラーな橋である。しかし錦帯橋は、水切りを施した石造りの桁に梁部が木製という特異性に加え、五連構造の誠に希有なものである。以降、錦帯橋は往々にして洪水被害は出ているようであるが滅失することなく今日に至っている。錦帯橋は構造上、橋脚部分以外は木造であるので高水位に対する浮力は激甚。したがって対策として橋を重くするため桶に水をはり並べということもあったようであるが今日、浮力対策として別の方策が講じられているのだろう。
 橋の向こうに聳える岩国城を借景にして錦帯橋を眺める景観は、確かに古今の名橋中の名橋であろう。飽きることはない。−平成18年4月−

錦帯橋