周防の阿弥陀寺−防府市牟礼− | ||||
周防の阿弥陀寺は、後白河法皇の菩提を弔うため、文治3(1187)年、源平の兵火によって焼失した東大寺再建のため周防に知行を得ていた俊乗房重源によって建立された寺。阿弥陀寺の茅葺の仁王門をくぐると本堂。境内は香煙が漂い、咲きはじめたアジサイをめでる人で混みあっている。寺に日本最古の鉄塔(建久8年銘)が伝わっている。 重源は、周防入りに先立ち、文治元(1185)年8月、東大寺の大仏開眼供養を行なっている。大仏殿の再建は、東大寺復興の第二期ともいうべきもの。建久6(1195)年3月、勧進の効あって大仏殿の再建がなり供養が行なわれた。重源は、養和元(1181)年に大勧進職についてから実に15年の歳月をかけ、後白河法皇が悲願とした東大寺の再興を果たしたのである。供養には源頼朝が参列している。大仏殿再興後は大仏殿の脇侍像や四天王像、南大門などが建築され、建仁3(1203)年12月、東大寺総供養がおこなわれている。 重源は、同時代の法然や栄西とは違った道を歩み、勧進聖や宗人陳和卿や土木技術者などをひきいて教団とも言うべきものを組織し、勧進に生涯をかけた人のようである。 重源は三度の入宋を果たした人。当時の学僧の中では稀有な実績を積んだ人である。東大寺の復興は国家的な関心事となっており、後白河法皇は最初、法然に再建を依頼したが、法然はこれを固辞して重源を推挙した。 東大寺再建大勧進となった重源は、一心に再建勧進に当たった。入宋三度上人の学徳、人徳をもって再建は果たされた。当時といえども莫大な再建費用の調達は困難を極め、当代きっての有徳者であった重源が大勧進に選ばれ諸方面から寄進を仰いだのである。 朝廷は東大寺再建のため周防と、後に備前の二国を東大寺に知行し、租税収入をもって再建に当てている。東大寺はいわば朝廷から特定財源を得たわけだ。国司は知行を得た寺院から選任されるのが通例であったが、僧侶が国司に任ぜられることはなかった。周防国も例外ではない。。しかし、東大寺の再建は重源の行動力と人望をもってしか叶わなかったわけで、重源は国司職に補任され実質的に国司の任にあたり、国司上人と呼ばれたのである。 周防国は瀬戸内海に開けた国。東大寺への用材の運搬も瀬戸内海、淀川の舟運が利用できる。しかし、周防から奈良への道のりは余りにも遠すぎる。運搬コストを考慮すれば、近江、山城辺りの山から用材を切り出せばよいが、たぶんそのころ30メートルを超える東大寺の母屋の柱や棟木、垂木などに利用できる口径、長さのある用材が払底していたのであろう。重源は、仏像の開眼供養が済むと、文治2(1186)年、佐波川の奥地、上下得地保のソマ山から数ヶ月の間に、東大寺の柱の用材とするため口径1メートル60センチ、長さ20メートル余の杉をはじめに130本の巨木を切り倒している。このような巨木が鬱蒼と生い茂る西国有数の森林が当時の周防には存在したのだ。搬送に莫大な人夫を要し、在地の地頭の妨害もあり、地頭職を停止させられた者もいたほど困難を極めた。材木に刻する東大寺の焼印(槌印)が阿弥陀寺に伝えられているという。阿弥陀寺参道に用材のレプリカ(写真上)が展示されている。 東大寺俊乗堂(写真上)に重源の彫刻が安置されている。 鎌倉彫刻を代表する像である。重源の姿を忠実に写したものといわれる。−平成18年6月− |
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周防国分寺−防府市国分寺町− | ||||
金堂の桁行は7間(約22b)、唐破風の向拝が付く。楼門は3間1戸、潜戸が付く。広い境内に金堂、楼門が配置よくおさまり、往時の国分寺を偲ぶのによい。 国分寺の近くに国衙跡がある。1基の記念碑と茫漠とした跡地が広がる。跡地に立ち、重源のことなどを思うのにはかえってこの方がよいかも知れない。−平成18年6月− |
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