岡山城
岡山城 遠景 旭川の西畔に築かれた城。馬蹄形に突出した小高い丘に漆黒の天守が建ち、丘周りを旭川がめぐる。烏城(うじょう)の別称がある。天然の要害旭川を巧みに利用し、五重の堀をめぐらせた城は、東西1.3キロ、南北3.5キロもあった。五重天守と多くの櫓、門を備えた城は、宇喜多直家、秀家親子、小早川秀秋、池田輝政と維新までしばしば城主の交替があった。
 慶長7(1602)年、小早川秀秋が急逝し同家は無嫡子によって断絶、かわって池田輝政が入城。岡山藩は、明治維新まで池田家による一族支配が行われた。天守など岡山城の遺構は第二次世界大戦の戦火によって焼失、昭和41年に天守、廊下門、不明門などが再建されている。
烏城の天守閣に立つと、この城ほど城主を取り巻くさまざまの人間模様や戦国の世の無常を感じさせるところはない。岡山城主宇喜多秀家の夫人は前田利家の娘豪姫。名島城主小早川秀秋は、もともとおねの甥で嫡子のいなかった豊臣秀吉の養子であった。秀吉に実子秀頼が生まれると、小早川隆景の養子に出され、隆景の隠居によって筑前名島城主となる。しかし、二十歳にも満たない青年秀秋の脳裏に、名島城主となったもののぬぐい去ることのできない秀吉への遺恨が刻まれたとしても不思議はない。
 秀秋は慶長の役や伏見城攻めに加わり戦功をあげるのであるが、石田光成とそりが合わず徳川家康に助けられることもあったようである。
 関が原の戦におよんで秀秋は、光成の働きかけや豊臣家とのゆかりから西軍とみられた。しかし、秀秋はそのとおりには動かなかった。松尾山に陣取り、東西両軍の様子をうかがっていた秀秋であったが、松尾山を下ると西軍の大谷隊を攻撃する。この行動が諸武将の寝返りの引き金となった。戦局は動き東軍が勝利する。秀家は戦場から姿を消し島津氏に匿われた。論功行賞によって、秀秋は加増になり名島城主から岡山城主へ転封。宇喜多秀家はひきだされ伊豆八丈島へ配流された。明暗を分けた二人であったが、秀秋は2年後(1602年)、急逝してしまう。
 天下分け目の関が原において、戦局に与えた秀秋の影響はあまりにも大きく、寝返りを潔しとしない日本的風土から秀秋に向けられた世間の目は冷たく、若い秀秋の心を傷め続けたことであろう。秀秋は城の再整備や民政に力を尽くしたと伝えられる。性悪の城主ではなかったようであるが、急に体調を崩し死亡。享年21歳。改易により小早川家は断絶した。関が原における秀秋の東軍への寝返りのいきさつやその急逝について諸説ある。眼下の旭川が戦国の諸将の愛憎を飲み込んで、何事もなかったようにときを刻んでいる。−平成19年2月−

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