ベンガラの街(吹屋)−高梁市成羽町吹屋−
吹屋 JR高梁駅からバスに揺られて40分。備中山中の町、吹屋の街は霧に覆われていた。白壁の商家がうっすらと紅色に染まり、くすんだアズキ色した大屋根の甍がしっとりと霧に濡れ、波うち、街道に消える。
 吹屋は、江戸時代末期から明治時代にかけてベンガラを生産販売した国内唯一のところだった。もともと銅鉱山として平安時代から栄えたが、吹屋の名が知られようになったのは、銅の副産物として生産されたベンガラの名声がきこえるようになってからだ。
 天領吹屋のベンガラは、品質、価格で他産地を圧倒するようになったのである。化学顔料に押されながら生産は昭和の半ばまで続けられた。ベンガラは、木材や金属の保護材としても広く用いられたが、伊万里や九谷など陶磁器の色絵の顔料や輪島塗などの漆器の下塗りなどにも広く使用された。
 ゆるゆると上り坂になった街道筋に塗り込め平入りのベンガラ格子の美しい大きな商家が建ち並ぶ。坂の頂上辺りに建つ商家は、ベンガラの製造販売を行った旧片山邸。旧片山邸の道向かい商家は、この地方では珍しい妻入りの商家。いずれも公開されていて、内部は驚くほど広く建前にも工夫がある。ベンガラ館(製造工場)や坑道も必見であろう。
 吹屋地区の小高い丘を越えたところに吹屋小学校の木造校舎がある。本館は明治42(1909)年の洋風建築。本館の左右の校舎は和風建築で、明治33(1900)年の建築。校舎は今なお使用されているという。大変貴重な建物である。
 吹屋は遠い過去が見えるなつかしい街。ベンガラのほか薪炭や砂鉄などの集散地としても栄え、問屋が建ち並ぶ街だった。吹屋から荷駄で成羽に運ばれた物資は高梁川の舟運を利用して、高瀬舟で玉島港にまで下っていったという。
 山間の隔離性が町並みの荒廃を阻んだのであろう。化学顔料の進出などによって吹屋のベンガラは滅びたが、その町並みなどが産業遺跡となって現代に蘇っている。−平成19年1月−

ベンガラの街2